odd_hatchの読書ノート

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フィリップ・K・ディック「ラスト・テスタメント」(ペヨトル工房)

 書店で手に取ったPKDの小説が気に入ったので手紙を書いたら、本人から好意的な返事が著者グレッグ・リックマンあてに届く。そこで彼にインタビューを申し込んだところ受け入れられ、1981年4月から翌1982年2月までに断続的に行えた。最後の章(1982年2月17日インタビュー)はほとんど突然の死の直前のものだ(同年3月2日没)。
 自分の知る限り、PKDはエッセイを書かず、書いたとしてもほとんど翻訳されていない。「去年を待ちながら」「ザップ・ガン」(創元推理文庫)の巻末にある自作を語るや、短編集「ザ・ベスト・オブ・P・K・ディック」のまえがきやあとがきくらいでしかお目にかかれない(たしか書簡集が死後発刊されたが、翻訳はなかったと思う。他の人の手による伝記も数冊あるようだが、翻訳はない)。なので、このインタビューで聞こえる肉声はとても貴重。なにしろ、「ヴァリス」「聖なる侵入」という代表作で難解な作品を書いた後。彼の考えがどのあたりにあったのかを知ることができる。

 内容に行く前に、PKDの生涯に関するいくつかの事柄を押さえておかないと。
・PKDは双子として生まれたが、妹は生後一か月ほどで夭逝した。その事実を後で知ったPKDは妹の存在(不在)を強く意識する。
・若い時に結婚。うまくいかず、離婚-結婚を繰り返す。執筆するためにアンフェタミン覚せい剤)などの薬物を使用。
・1970-72年にかけて書けなくなったPKDの家は不良のたまり場になる。そこからサブカルや反体制に共感を持つ。
・そのころ自宅が何者かによって荒らされるという事件が起きる。真相は不明。PKDはFBIに監視されているというオブセッションをもつ。
・1974年2月に「ヴァリス・ヴィジョン」と後に呼称される神秘体験をする。ピンク色の光、別人格の転移、初期キリスト教徒のもつ魚のペンダント、生まれて間もない息子のヘルニア罹患のお告げ、など。
 このインタビューによると18-9歳のころから哲学(とくに古代ギリシャ)に興味を持ち、ユング心理学を勉強し、易経を実践し、ナチスや神学の研究を行っていた。どれも作品に反映している。生活と執筆に苦労しているときに、上記のような体験をする。そこから神秘体験の意味を解読するために、グノーシス主義エッセネ派死海文書、パイク主教等の研究を行う。作品とは別に大量のメモを書く。一部は「ヴァリス」の釈義に使われる。
 でこの釈義がPKDのファンにとって謎になる。PKDの研究の成果であるのだが、さまざまな情報(なかにはPCについても)がまじりあっていて、整理されていないので、よくわからない。(「我が生涯の弁明」(アスペクト)参照)
 そのときに、このインタビューは参考になるのかもしれない。第2部の「タゴール1981」が興味深い。実在するインドの詩人とは無関係の「タゴール」は新しい救済者とされる。人類が生態圏に対してなした罪(とくに核兵器、核爆発実験、原発放射性物質など)の責任をひとりでかぶる。人間単体ではなく生態圏であるのは、生態圏は単一で、分割不可能な一つの総体であり、その一部である人間は保護保存し、崇拝し、大事にすることが肝要。なのにそれに反することばかりしている。そこで、やけどを負った姿をしているタゴールが罪を背負い、ひとり死すことで惑星をまるごと救済するという(でもたぶんタゴールは自分自身を救うことはできない:ワーグナーパルジファル」や「逆まわりの世界」のトーマス・ピーク師、「小さな黒い箱」「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」のウィルバー・マーサーらに類似)。死は怠慢や無神経、残酷によってもたらされるが、なぜ死から生が生み出されるかは理解できない。神秘そのもの。
 たぶん「ヴァリス」「聖なる侵入」に書かれたイメージとはずれがあると思うが、その読解の役には立ちそうだ。
 でも最晩年1982年のインタビューになると、不可解になる。なんとPKDは新宗教創始者ベンジャミン・クレームに入れあげる。
イエス大師 - Wikipedia
 ここではPKDはクレームの代弁者になる。あの懐疑主義者の面影はどこへやら。主体的な判断を止め、公平や公正に無関心になり、徳の実現のために全体の利益を優先し、個の苦しみ悩みに共感しない。「ティモシー・アーチャーの転生」では、こういう新宗教創始者に対して懐疑的・批判的な視点を持っていたようにおもえるのだが。いったい、どういう改心がPKDにあったのか。(ここのPKDはイカれてるといいたいところだが、彼の作品への好意がそうさせない。)
 「流れよ我が涙」「暗闇のスキャナー」「ヴァリス」「聖なる侵入」について、自註めいたことがあって、そこは面白かった(救えない女性の死、救済者として現れる少女。彼女らはフィルの死んだ双子の妹である。「ヴァリス」のホースラヴァ―はギリシャ語のピリプPhilip、ファットはドイツ語のディックDickにあたる。)。それ以外のディック神学とされるところは、疑問符だらけ。好事家が読めばいい。