odd_hatchの読書ノート

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フィリップ・K・ディック「ヴァリス」(サンリオSF文庫)-1

 突き放したしかたでサマリーをつくるとこうなる。心身が不安定な中年のSF作家がいる。このところ立て続けに悪いことが起きる。妻が離婚して子供を連れてでていき、ひとりきりの家には薬物中毒者がでいりするようになる。その一人が、作家フィルに電話を掛けた後、自殺した。彼女を救えなかったという負い目がフィルを追い詰め、睡眠薬その他を酒で過剰摂取し、エンジンをふかした自動車をいれた車庫に閉じこもった。結果は未遂。そのまま精神病院に収容される。神学、神秘思想、オカルトなどの研究にふけって、治療員を困らせる。退院したのち、友人たちと映画を見に行くと、彼の神学体系そっくりの映画(前作の「アルベマス」を踏襲)をみた。製作者たちに会いに行くと、彼らもフィルの神学体系と同じ考えの持ち主だった。彼らは救世主はいるといい、二歳の娘を紹介する。娘はフィルたちに「アルベマス」からの使命を伝える。フィルたちが帰った後、娘は殺されたが、フィルは救世主の言葉を待ち続ける。
(追記:雑誌「銀星倶楽部」1989年5月「特集 フィリップ・K・ディック」(ペヨトル工房)のテッサのインタビューによると、映画はデヴィッド・ボーイ主演の「地球に堕ちてきた男」とのこと。)


 フィルの問題は、神は存在するのになぜ人は苦しむのか、なぜ死ななければならないのかということ。重要な人物を失ったり、死ななければならない病に侵されたり、自分が他の人たちから価値がないと面罵されたり、自分の生きる価値が見つからなかったり。人生は苦痛と悲嘆ばかりで、だれも救いの手を差し伸べてこない(自身は病や精神の不安定のために、社会や世界にかかわることができない)。なぜそのような世界になってしまったのか。
 なので主題は前半に出てくるワーグナーパルジファル」に共通するとみた。聖杯を守る城に暮らす教団員。彼らの手元には神の恩寵である聖杯があるが、守護する教団主が癒えない傷を負っているために、聖杯の加護を受けることができない。教団員は苦痛と悲嘆に暮らしていて、だれも教団主を救える聖槍を回収する旅にでようとしない。そこに現れた無垢なる愚か者が教団の教えや修業とは別の経路で世界の「真実」にふれることができた。聖槍を回収し、老いて傷ついた教団主の代わりに勤行を摘むことを引き受けて、世界に秩序をもたらし、神の恩寵を受けられるようにする。この小説では、フィルが「無垢なる愚か者」となって、世界を遍歴することになる。あいにくと、フィルはパルジファルほど年が若くなく、家族にさまざまな問題を起こした経験があるので、老練、老獪。精神病院に収容されていた時、体育会系な治療員に自分の神学が笑られたり、罵倒されたりすることがわかっているときには、彼の言うことを聞いているふりをするくらいの知恵をもっている。そういう攻撃的な他人への対処の仕方が典型的にあらわれるのは、探索に出て奇天烈なことをつぶやき続ける人格の一部分を「ホースラヴァー・ファット」と名付けて他人にするというトリックをしかけているところ。彼が攻撃を受けるので、フィルという書き手の人格は苦痛や悲嘆を重ねずに済ますことができる。にもかかわらず、フィルは「人を助けることを止めろ」と助言され続けるのだが、フィルと同じような境遇にある苦痛や悲嘆にあるものに過度に感情移入し、自分では取り切れない責任と義務を引き受けてしまう。このプロジェクト(他人の救済)に失敗すると、挫折と自傷感を持ってしまうのだよね。なんというか他人との距離の掴み方や感情を把握できない人が、無理に頑張ろうとして失敗を重ねている感じ。
 客観的で自閉的なフィルと衝動的で躁病的なファットは二歳のソフィアの霊言の示唆によって統合され、人格分離は解消される。でも、救世主ソフィアの使命を受け入れたあと、再度フィルとファットは分離してしまう。救世主の使命は達成されず、ファットは探索の旅に出たまま。ワーグナーの楽劇「パルジファル」に尚らえれば、「ヴァリス」のフィルとファットの探索は第2幕が終わったところまで。その先の第3幕はまだ書かれていない。ファットの旅は完了することがあるのか。
(1970年代にドイツのハンス・ユルゲン・ジーバーベルクが「パルジファル」を映画化した。そこではパルジファルを男女二人で一役にする演出をしていたが、それを思い出した)。
 かつて読んだとき(20-30代)には、同じような抽象的な問いを共有していたので、この小説は自分の現在におきている苦痛や悲嘆を浄化させる働きを期待して読み、ある程度の共感を持ったのだが、今度はどうにもきつい読書でした。
(小さな不満をいうと、「holy shit」を「聖なるくそったれ」と訳すのはどうかねえ。WWEで観客がそうチャントすると、「超スゲー」と字幕を付けていた。)


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