odd_hatchの読書ノート

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フィリップ・K・ディック「ティモシー・アーチャーの転生」(サンリオSF文庫)-2

2018/06/19 フィリップ・K・ディック「ティモシー・アーチャーの転生」(サンリオSF文庫)-1 1982年



 物語をティムの側から見ると、「ヴァリス」のホースラヴァー・ファットの行ってきたことに等しい。異なるのは、ティムは主教で名声があり、精神疾患を持っているとはだれも思わないこと。それは自殺しようとしなかったり薬物中毒にかかっていないため(アルコール耽溺症で治療を希望していたようだが)。だからティムは治療官にバカにされたり、収容された病院から早期退院できるよう術策を施したりする必要はない。それはティムの精神を安定にすることになっているが、彼の社会性のなさは、ファットやフィル@ヴァリスと同じように他人を救うことができない。息子、秘書兼愛人が自殺するごとに、ティムの考えは変転する。イエスの実在性の証明→ジェフの自殺で挫折→死後の生の証明→カースタンの自殺で挫折→サドク派の教義の解明という遍歴がある。彼の探求や学識は、他人を救えない。ついにはイスラエルの荒野で自殺同然のような探索のあとに事故死した。
 ティムがファットやフィルのようなPKDの主人公と異なるのは、彼は規律を持っていてだらしないところや自分の弱みをことさら露悪的に表現していないところ。俺はダメだ、にっちもさっちもいかない、抜け出そうとしてもどうにもならないなどと自虐的なところを見せて、他人に媚びを売ったり行為を期待するそぶりを見せない。ここは大きな変化で、PKDの描いたダメ人間に感情移入させようという手法をとらない(なので、他の長編のような感情移入がおこなわれないし、語り手の冷ややかで軽蔑的な文体もあって、なかなか物語にのめりこむことができない)。そのような人物を登場させてもなお、他人を救済できるかの問いには肯定的なイエスを言うことができないのは、つらいところ。どんな厳しい目にあっても、機嫌がよく、「なにはともあれわたしたちの畑を耕さなければなりません」といいのけるカンディード@ヴォルテールのような明るさはもはやない。あるいは聖杯守護の騎士に対するパルジファルのような救済者も期待できない。
 もっとも「人間」らしいのは、精神分裂病を患っているビルか。カースタンの息子であるビルは分裂病で入退院を繰り返している。論理的、抽象的な考えをすることができず(ことわざを理解できない)、しかし車に関しては非常に詳しく、修理もできる。難しいコミュニケーションのできないビル。彼の言葉はシンプルで、力強い(「去年を待ちながら」のタクシーや「銀河の壺直し」の粘菌や「アルベマス」のホー・オンのような非人間に似ている)。そのうえ、会話の相手の心情を読み取って的確に表現できる。まあ、鏡みたいなものでもあるな。
 その彼にしても、あるいは精神疾患をもっているから、人を助けることができない。そこは「戦争が終わり、世界の終わりが始まった」のガラクタ芸術家ジャックの再来。良かれと思って行ったり口にしたことが他の人を破滅していく。そして自分の力も失われ、ビルはついに病院に収容されることになる。このとき、小説の主要登場人物のうち生き延びたのはエンジェルだけであるが、彼女の態度がビルの病状を悪化させるという理由で医師から面会禁止を言い渡される。現代のパルジファルは自動車は修理できても、人間を救うことはできない。なんとも厳しい認識。
 ビルはティムが死んだあとに、自分はティムであると言い出す。ビルの人格にティムが入って、一つの人格に融合したのだという。この説明がVALISみたいで(ティムの人格が伝送されたのを受信したとかピンク色の光を見たとか)、神の遍在を証明するできごとにみえる。この主流小説ではそのようなオカルトや超常現象は現れないので、ここはビルの人格崩壊が進み、エンジェルやカースタンの影響が反映されたのだとみるべきでしょう。むしろ全体としてVALIS神学の批判として読んだほうがよい。かつてはこの小説は「ヴァリス」「聖なる侵入」ほどには面白くなかったが、今回の再読ではこちらのほうおもしろかった。ダメ人間を書かせるとこのひとの筆は冴える。
 1981年4月15日SMLA梗概受理、81年5月13日完成原稿受理、1982年3月2日PKD死去。死後刊行。

    

<参考>
山形浩生さんと、『ヴァリス』3部作について語る。 – 翻訳について語るときに私たちが語ること