odd_hatchの読書ノート

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フィリップ・K・ディック「聖なる侵入」(サンリオSF文庫)-1

 CY30=CY30B星系で、受信した地球の電波を入植者のために配信している男ハーブ・アシャーがいる。ひとり暮しの独身であったが、その星の神<ヤー>が受信テープをダメにしてしまった。隣のドームに住む同じ独身女性リビス・ロビーのところに行くと、彼女の具合が悪い。関わり合いになるのを怖れたが、老人エリアスによると、彼女は多発性硬化症、しかも異星人との交合で処女懐胎していた。出産するには地球に戻らなければならないが、いちど入植して地球を離れたものは帰国が許されていない。ともあれ、三人は<ヤー>の加護を期待して、宇宙船に乗り組む。
 当時地球は、キリスト教イスラム教と共産党が合体した神の国になっていた。20世紀半ばの堅固なイデオロギーが合体して、聖俗を監視・管理する宗教共同体ができていたと思いなせえ。そこに処女懐胎した女性が帰還することは、彼らの聖性を懐疑させ、ひいては体制を揺るがしかねない重大問題になった(ドストエフスキー「大審問官」を思い出すこと)。聖なる地球に異国の神が侵入すること(そこからタイトルがついたのだろう)を阻止するために、ハーブらを逮捕拉致しようとする。ハーブに語りかけたヤーはハーブの口を借りて、検査員と警官の裏をかき、帰国できたが、途中宇宙船は事故を起こしてしまった。リビスは死亡、子供は無事、ハーブは10年間冷凍保存される。


 ここまではPKDの初期から中期の長編によくでてくるような太陽系または地球規模の陰謀に巻き込まれた男のサスペンス。ここでの描き方が今までと異なるのは、時間の流れを無視してシャッフルし、かつ現実と夢(ここでは冷凍保存中に見る夢:「ユービック」と同じ)も区別をあいまいにしていること。なので冒頭からしばらくは、ハーブとリビスの話と、ハーブの夢(「虚空の眼」「ユービック」)と、リビスから生まれたマニーと友人ジネの話が同時進行するので、注意すること。
 ハーブはいつものPKDの主人公のように自閉的で、衝動的で、懐疑的で、自己破滅願望をもっていて、自己肯定感が極端に低い。にもかかわらず、リビスの懐妊した子供が<ヤー>の神の子供であることで、世界の中心の秘密に触れてしまう。よかったのは、ハーブにはもはや世界救済の任務を与えられないことか(それはマニーが代替する)。なので、政府や警察などとの直接的な攻防は回避される。そのかわりに、彼個人の救済という主題が大きくのしかかる。
 すなわち、ハーブがかかわった人、特に女性はいつも苦痛や悲嘆を味わうことになる。リビスは多発性硬化症で不治(当時の知見)であり、懐妊した身体には宇宙旅行は厳しい。彼女は若く、いくつかの理想や実現したい夢を持っていたが、この不条理(難病と処女懐妊)で痛めつけられている。そして地球帰還直後に事故で死亡。もうひとりの歌手リンダ・フォックスはハーブの夢では宇宙的な名声を持つ歌手であるが、地上では駆け出しで売れない。ハーブは彼女に憧れてはいても、彼女の問題を解決できないし、かかわること自体が彼女に危機をもたらすことになる。なので、ハーブは彼らから離れて、孤独に歩むことになる(唯一の助言者は惑星からいっしょにきた老人エリアスであるが、この奇矯な老人はほぼ頼りにならない。なにしろ、ヤーのメッセージを地上にあまねく広めるために3000万ドル(!)を拠出してFM放送局を買い取ろうと言い出すのだ)。そのうえ、ハーブは人を助けることができるかの問題を神学的な、ないし布教に還元してしまう。リビスの治療費とかマニーの養育費とか自分の食い扶持とかのことを考えないし、社会とのかかわりを持とうとしない。
 そしてハーブの救済は唐突に訪れる。それまでの役割が逆転し、彼らの秘められた生の意義や価値が向こうから立ち現れるのだ。主要な登場人物は後半の聖と悪の闘争の結果、自己変容を遂げるが、ハーブは変わらない。たんに保護されるだけで、これからは生活や社会に自発的にかかわるのではなく、そうする人のそばに寄り添うだけ。
 なんとも寒々しい救済された世界。


    


2018/06/21 フィリップ・K・ディック「聖なる侵入」(サンリオSF文庫)-2 1981年