2018/06/22 フィリップ・K・ディック「聖なる侵入」(サンリオSF文庫)-1 1981年
ハーブとリビス、あるいはリンダ・フォックスに起こる巻き込まれがたサスペンスといっしょに、霊的な闘争が進行する。それを担うのは、リビスから生まれた異星人と地球人の子供であるマニー。この名前は出産前の胎児の時に、そう名付けるよう命令したもので、ほんとうの名は「インマヌエル」(旧約聖書に登場。とくに「イザヤ書」)。とても聡明。しかも自分が<ヤー>であることを認識していて、地球における霊的な運動の使命を持っていることを認識している。宇宙的な悪との闘争であり、神をあまねく示すこと。ただ、リビスが死亡した事故のために、多くを忘れている。ただ地上のできごとを見聞きするうちに、人類に憎しみを感じるようになり、人類は無価値であると考えるようになる。
彼マニー、インマヌエルの介助をするのが、少女ジナ。彼女も別の名をもつ。すなわちダイアナであり、妖精。「秘密の共和国」にマニーを誘い、マニーがまっている「大いなる惧れの日」を到来させないように願う。秘密の共和国は楽しく、美しく、癒しの場所である。
ここらをシンプルに見れば、ヤー実はヤハウェーの神が異世界からもたらされ、地上の権威や体制を無効にすることをインマヌエルはもくろむ。ほとんどモーゼの役割ですな。モーゼはたとえばマン「掟」やシェーンベルク「モーゼとアロン」にみるように怒りっぽく、人間の罪を断罪する。そういう「怒りの神」(というタイトルのPKDの長編がある)による神の鉄槌が人間におきないように、神と悪の闘争が起きないように、ジナ(アラブでは妖精のことをジンという)は美でもっていさめようとする。たとえば、マニーの仮の父であるハーブの不遇や不満を解消するゲームをジナはマニーに持ち掛ける。そのためハーブはリビスと結婚している可能世界をつくる(二人でリンダ・フォックスのディナーショーに行かせたり、エリアスのレコードショップで働いていたり)。生の美しさがあれば、人間はそれでも十分に神の意志や聖性を認識できるのであると。(ここらへんは荒野のイエスを悪魔が誘惑しているシーンを見ている感じ。悪魔が女性性をもっているところが聖書と違う)。
このゲームはジナが勝つかに思え、世界の幽閉者を解放しようというところで失敗する。動物園の小山羊を逃がした時、それはベリアル(「無価値なもの」、「悪」、「反逆者」を意味する悪魔、堕天使)であった。これは<告発する者>であり、インマヌエルのような聖なる者に対抗する。ベリアルが逃げ出し、世界が揺らぎだす。二人の捜索をかいくぐり、ベリアルはハーブの前に現れ、マニーの「父」であるハーブを破滅させようと試みる。ハーブをコントロールしてリンダ・フォックスの家に向かわせる。そこで待っていた真実・・・。
PKDはここではユダヤ教やエッセネ派(1970年代からすこしずつ死海文書が公開されるようになって関心が高まっていた)などを大量に引用。上記のように世界の神と悪との間で、宇宙的・超歴史的な闘争が行われていて、人間のうちその霊性に想起できす限られたものだけがその闘争に参加し、永遠性を獲得できるのだという。そこには人間を介助、支援する存在もあって、そこにある女性性にふれることが重要。VALISは神と人間の間にいて、神のメッセージを伝える(しかし謎めいている)役目を果たす(マニーに渡したスレートにVALISのメッセージが浮かび上がる)。このあたりがPKDの考えか。
自己破壊願望、自信喪失、自暴自棄になっている個人の救済を考えてきたPKDの到着点はこのようなもの。なんか窮屈。個人の問題を解決する際に、自分の行動性向を振り返らず、もっと大きな存在(観念ともいえるか)の目標や目的に自分を合わせてしまうところ。その目標や目的を共有しないものには徹底的に啓蒙はするものの、実は無関心で、いや嫌悪している。生活や労働よりも観念の方が大事という党派観念@笠井潔「テロルの現象学」の持ち主になっている。それはちょっとなあ。「去年を待ちながら」の自動車の語りの方が、自分には救いや癒しになると思うのだがなあ。
PKDが言うには「これは明るい小説で、生命力に満ちている。これを書いていた時のわたしは、とてもとてもしあわせだった。『ヴァリス』は大成功だと思っっていた(略)。生まれてはじめて、ひとりで暮らし、その生活を楽しむことができるようになっていた。孤独に絶望してではなく、孤独との和解の中で書かれた小説なんだ。ひとりで暮らしていたけれど、不都合は感じていなかった。(「ザップ・ガン」創元推理文庫P375)だそう。なるほど。
1980年3月14日SMLA概要受理、80年5−6月完成原稿受理、1981年出版。