odd_hatchの読書ノート

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フィリップ・K・ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」(ハヤカワ文庫)-1

 映画「ブレードランナー」は初めて見たときに衝撃と感激のふたつの感情をもった。なので、ビデオにとった日本語吹替版を繰り返しみた。そこにある犯罪者の追跡、バウンティハンターの孤独、アンドロイド(映画ではレプリカント)の悲哀、経営者や警察官の傲慢、科学の驕り、退廃する地球などにいろいろ思いをはせたのだ。どうやら、映画の前にこの原作を読んだらしいのだが、読書の時にはさほど印象に残っていなかったらしい。映画を見たときに、ちっとも思い出さなかったから。


 さて、それから四半世紀以上を経ての再読。これは傑作だ。この長編の前の「逆まわりの世界」で、PKDの書き方が変わったと感じたが、それを再確認。物語がち密になるとともに、人間(ん、アンドロイドたちもだぞ)の内面描写が冴え、さまざまなガジェットが暗喩として機能し、多人数多視点のストーリーが緊密に融合、神・アンドロイド・機械の問題がさらに深く考察される。それでいて、バウンティハンティングのアクションは劇的効果を生む。すごい。
 単純なストーリーはこうだ。火星の植民地ではローゼン協会が製造するアンドロイドが奴隷労働をされていた。新型のアンドロイド・ネクサス7は感情を持つまでに至り、自分らの境遇を悲しんで、地球に脱出することにした。地球では不法侵入したアンドロイドは法の保護がない。むしろ警察の中のバウンティハンターによって抹殺される。それを知ってもなお8人のアンドロイドが侵入。2名は途中で死亡したが、最初のバウンティハンターは逆襲されて重傷を負う。次に任命されたリック・デッカードはローゼン協会のレイチェル・ローゼンのテストに失敗し、自信を失う。上司のブライアントはデッカードの危機には無関心、新型のアンドロイドであるレイチェルは何かの思惑をもってデッカードを誘惑してくる。しかし24時間以内に6人のアンドロイドを倒さなければならない。妻との関係が悪化し、本物の羊が死亡して、抑うつ状態にあるデッカードは任務を達成できるか。
 こうしてみると映画は原作をだいぶ刈り込んで、バウンティ・ハンティングにフォーカスしたものだといえる。いくつか違いをみてみよう。
・映画では酸性雨の降る理由は明示されなかったが、原作では「世界最終戦争」が米ソ間であったとされる。核兵器を打ち合ったため、地球は激変。人口は数千万人に減少し、放射能が地球を覆う(なので股間袋をつけて睾丸を防御しなければならず、酸性雨が降り、人工飼料を食べるしかない)。人間には放射能の影響のないレギュラー(適正者)とスペシャルに分けられ、レギュラーのみが人権を持つ。スペシャルは職業、結婚、配給などの差別を受ける。(このあたりは初期短編によく出てくる設定)
・人間以外の生物はほぼ全滅。なので、わずかに生き延びた動物は高額で取引され、ペットを持つことは社会的ステータスである。そこまでの金を持たないレギュラーは電気動物を飼っている。ペットへの関心は深く、他人のもっているペットに嫉妬し、ペットの価格表は誰もは携帯している(このあたりのフェティシズムは短編「パーキイ・パットの日」の延長)。
・人間の感情はムード(情動)オルガンでコントロールできる。数千の感情と状況のパターンが登録されていて、ダイヤルを合わせることで感情をコントロールできる。たぶん核戦争後の廃墟の地球に住むことがストレスになっていて、なんらかの神経症を患っているのだろう。薬物治療の代わりに、このような機械仕掛けの感情コントロールの仕組みができているのだ(その点はこれまでの作品で出てきたドラッグによるトリップというモチーフはない)。
 ここで見えてくることは、この長編の社会は差別の複合構造になっていること。人間とアンドロイド、人間のなかのレギュラーとスペシャル、動物(希少性のあるものは保護される)とアンドロイド(法の保護がなく抹殺される)。そして、これらの区別は一見自明のように見えるが、事例にあたるほどに、その区別を付けることが困難になっていく。すなわち、特権者と被差別者を区分けする根拠や説明が無効化されるのだ。しかし差別の構造は維持されなければならない。そこで個々を区別しなければならないもの(とくにバウンティハンター)は苦悩する。アイデンティティが崩れていく。


  

2018/07/24 フィリップ・K・ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」(ハヤカワ文庫)-2 1968年
2018/07/23 フィリップ・K・ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」(ハヤカワ文庫)-3 1968年