odd_hatchの読書ノート

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フィリップ・K・ディック「虚空の眼」(サンリオSF文庫)-1

 1959年10月2日、カリフォルニアに建造された陽子ビーム偏向装置が、始動初日、暴走事故を起こした。居あわせた八人の男女は、陽子にさらされ、高みから投げ出される。サンリオSF文庫には登場人物票がないので、自分が補足。
ジャック・ハミルトン: ミサイル工場の技師
マーシャ: ジャックの妻。共産主義にシンパシー。
マクファイワ: 保安警察の責任者。マーシャを告発。
アーサー・シルヴェスター: 退役軍人
ジェーン・リース: 書と絵の店経営。潔癖症
ビル・ロウズ: 黒人ガイド。高等物理学専攻の大学院生。
イーディス・プリチャード: 金持ちの中年女性。
デイヴィッド: イーディスの息子。


 テーマは現実への脱出。凡百のファンタジーでは、現実から異世界に投げ込まれた主人公たちは異世界にすぐになれ、異世界の危機を救うために異能を発揮するものだが、こちらでは異世界は主人公たちに悪意をもっている。彼らは異世界に適応することはできないし、ときに激しい排除にもあう。そうすると唯一の選択は現実に向かって脱出すること。彼らはまず世界の不合理や悪意の意図を測り、方策を練る。ダンジョン(迷宮)の迷路とトラップからいかにして自己を守りつつ、世界に出る道を見出そうとするか。
 1955年2月15日SMLA受理、1957年出版。でこの国には早くに紹介された(しかし1960-85年まで入手困難)。筒井康隆など1950年代にSFにふれた読者から熱い支持を受けてきた。なので、設定を説明しても問題なかろう。陽子ビーム偏向装置の暴走は莫大なエネルギーを放出して、居合わせた八人(の中で最後に意識を失った者)のインナースペースに彼らを送りこんだ。まあ他人の夢の中に入ってしまったと思いなせえ。そうすると現実で抑圧していた「他人」の欲望や願望が充足された世界が構成されている。読者の物理現実や冒頭の主人公たちの現実からすると、奇怪で不合理きわまりないが、夢の中ではアド・ホックなつじつまあわせが即座にできてしまう。いいかげんで言語道断なでたらめな世界にいるわけだ。
 最初の世界は、「第二バーブ教」なる宗教社会。宗教の教義が社会の価値や倫理と一致し、貨幣がない。傷はお守りと祈りで治癒し、街には宗教的情熱を持つ青年が闊歩して監視している。罰当たりな言葉をはくとそくざにバチが下り、キリスト教は異教。神に祈ると天空に上昇し(男二人が傘につかまって空を飛ぶシーンに爆笑)、神にあう。
 次の世界は、ビクトリア朝道徳の徹底した社会。非道徳的なもの、汚いものはカテゴリーごと消去される(悪さをした一個体が消えるのではなく、世界から消滅。あったという記憶が消える)。筒井康隆残像に口紅を」を思いなせえ。
 3番目の世界は、陰謀と迫害の妄想を持つ世界。創造者に悪意を示したものは破壊され(内臓と皮膚が裏返しにされた猫というグロテスクイメージ)、家電製品は人を攻撃し、家は生き物になって中の人を食う(幽霊屋敷のSF版改変)。
 4番目の世界は、秘密結社と軍隊が永久戦争する世界。スパイは摘発され、裁判なしで処刑される。市街戦があちこちでおき、銃弾があたりを跳ねる。
 どの世界がだれのインナースペースであるかは伏せておくとして、恐怖なのは読者の物理現実に連続していると思われる小説冒頭の世界では平凡で凡庸で社会的には弱いとされている人のなかに、このような暴力的で他者を抑圧したい欲望や願望があるということ。外見上、健全と思われる人のインナースペースが現れてくるが、あとになるほど他人への憎悪が激しくなり、敵意がむき出しで、攻撃的になる。
(そこで悲しい思いになるのは、秘められた欲望や願望のなかに、女性嫌悪や人種差別があること。それは作者の筆致にも反映されていて、男性である主人公ジャックの健全性は疑われていないし、ほかの男性もおおむね善人。しかし、女性であるマーシャは醜い容貌にされてしまうし、黒人ロウズはほとんどの世界で失職し、危害を受けないように田舎者のふりをせざるをえない。女性であること、マイノリティの人種であることだけで、彼らは攻撃にさらされ、ひどい目にあう。まあ時代の制約ゆえ目をつぶるべきだろうが、どうにも気分が滅入る。)

  

2018/09/06 フィリップ・K・ディック「虚空の眼」(サンリオSF文庫)-2 1957年