1973年初出で、当時の高校生がよく読んでいた(と記憶)。「ソクラテスの弁明」を読めと倫理社会(当時)の教師に言われて、この作者の「ソクラテス最後の弁明」を買ってしまったという笑い話があったと思う。
さて、高校生が主人公格のミステリはこの時代に確か始まったのだと思う(辻真先「仮題・中学殺人事件」1972年もあるが、これはジュブナイル)。たいていのミステリは大人の話だったのを、学校の話にもっていたのだ。高校生や中学生の読者からすると、自分の生活や環境の延長にあるストーリーに親近感をもったのだろう。それが新本格の登場によって、高校生や大学生が主人公格のものが大半になるという転倒が起きるのだが、それは別の話。
女子高校生の葬儀から始まる。病死という発表であったが、中絶の失敗という噂であった。真実を知りたい父は、やさぐれた男を雇って、娘の周辺を捜査させる。その年の夏に小旅行をした高校生グループの中にいるだろうとわかり、学校に乗り込む。その矢先、もっとも嫌疑の濃厚な生徒の弁当を食べた別の生徒がヒ素中毒を起こした。
ここから筋が代わり、中毒を起こした母子家庭の話になる。母は保険の勧誘員として生計を立てる(1960-70年代はシングルマザーが保険や化粧品のセールスで生計を立てることが可能だった。在宅と外交という緩やかな勤務で、歩合制の高収入が可能な職業。平成になってそんな職業はなくなってしまった)。姉は会社の事務員。上司の妻子持ちと不倫関係。高校生の修学旅行と母の慰安旅行が重なった晩、自宅に連れ込んだが、母が帰ってきた。その後、上司は失踪。のちに刺殺体が床下から見つかる。姉は密室で焼き串を腹に刺して死亡。動機が分からないので、この一家の事件の捜査は難航する。一方、娘を失った父の捜査は、高校生の小旅行のできごとを解明する。そこでは、土建屋の父に復讐したいという娘の思惑が浮かび上がる。その思いは高校生たちを動揺させていた。
こうやってサマリーをつくると、高校生の話は後ろに隠れているな。繰り返されるのは、大人たち(母子家庭の母と姉、警察の捜査陣、娘を失った父など)による今どきの高校生は理解できないという述懐。なにしろ発表年には連合赤軍のリンチ事件があり、数年前には全共闘や新左翼の若者の叛乱があった。いずれも親の目の背けさせる凄惨な事件であり、動機の理解しがたさをそういうしかない。このような行動的な高校生の次の世代である小説に登場する高校生たちにはニヒリズムや「三無主義」などの無気力さや他者の拒否などがめにつくようになる。そういう時代の「空気」が読み取れる小説。
父と子の理解しがたさ、コミュニケーションの取れなさはこの時代の小説にいくつかあって、思い出すのは少し後の都筑道夫の西蓮寺剛のシリーズ。そこでも高校生や大学生の失踪や自殺が事件になっていた。都筑道夫の小説では、高校生や大学生の行動は直接は書かれず、大人の聞き取りや訊問にふてくされて答えるばかりであるが、見えないところで短慮で浅はかな行動をとっている(しかし動機は切実)のがわかる。この長編では高校生だけの会話や行動も書かれる。よくわかっていると思いながら知ったのは著者は初出のとき50代で、そのまえに新聞記者もやっていたとのこと。なるほど、取材と執筆の機会があったわけだ。
あと、この時代の問題が背景にあることも重要。事件の中心に未成年の妊娠(この時代は中絶があたりまえ。映画「ヒポクラテスたち」など)がある。父のマンション建設では日照権問題があり、町工場の排水汚染があり、若者の叛乱があった。初出時は身に突き刺さるような身近な問題であったが、いまでは注釈が必要だろう。
この時代の高校生の教養はいまよりも高いものであった。タイトルの「アルキメデス」は中絶に失敗した娘の最後の言葉であるが、その含意するところは多い。それを高校生たちは理解し咀嚼し、議論に用いる。当時は詰め込み教育、暗記中心の受験勉強が批判されていて、その通りだと思うが、高校生の知識と判断力は高かったようだ。それが小説から読み取れる。
なお、ミステリの謎解きはシンプル。容疑者がひとりで、そのひとりが犯人。事件の関係者が相談なく勝手に動いたので、錯綜してしまった。あいにく事件を詰め込み過ぎて、深く描写できなかった。第一作だから仕方ないか。しばらく入手困難だったが、初出時に読んだ高校生たちのリクエストがあったのか、21世紀に入ってから復刻されたようだ。