odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

コナン・ドイル「緋色の研究」(角川文庫)

 シャーロック・ホームズ登場の第一長編。この大成功で、売れない医師で売れない作家だった著者は、世界的な名声を獲得することになった。


 1887年のロンドン。ある空き家に一人の男が死んでいるのが発見された。被害者はアメリカから渡ってきた男性で、身元ははっきりしない。乱闘のあとはなく、壁に血で「RACHE」と書かれている。ホームズは現場と一瞥し、いくつかの調査をした直後に、犯人の身体的特徴を描いて見せた。警察が困惑する一方、ホームズはベーカーズ・イレギュラーズの貧困少年を駆使して調査にあたる。そのあと、別のアメリカ人が刺殺されていて、遺留品の丸薬から最初の被害者の殺害方法がわかった。残された結婚指輪を返すという新聞広告を出して、犯人をおびき出そうとする。
 シャーロッキアンと呼ばれる人たちによるホームズ学には一切興味がないので、その方向の感想は書かない。これは犯罪捜査に主眼をおいた物語。ここでは警察の間抜けな捜査に対する素人探偵の知性の優位を楽しむことになる。それはいささか不当なのであって、ロンドンの警察組織ができたのは1820-30年代( ジョン・ディクスン・カー「火よ! 燃えろ」(ハヤカワ文庫)」参照)なのであって、科学捜査のない時代には不手際が目につくのはあたりまえのこと。昔ながらの聞き込みと密告に頼るやり方ではしかたがない。その強権的なところに、論理と科学を持ち込むホームズのやり方は新しかった。そういえば、この時代、人々は科学に魅了され、さまざまなところで行われる科学講義に熱狂していたのだった(ファラデー「ロウソクの科学」、ハックスリー「科学談義」など)。そのあたりが当時の読者の欲望に応えたのだろう(ほぼ同時期の黒岩涙香「無惨」1889年も同じような犯罪捜査と科学的手法の物語で、この長編にとても良く似ている)。
 後半は事件の遠因となる被害者と加害者の因縁の物語。アメリカ開拓時代に行き倒れの父娘がモルモン教徒の幌馬車隊に救われる。その恐ろしい掟によって、若者たちに憎悪が生まれ、なんと20年の長きにわたる復讐がアメリカ、ヨーロッパ、ロシア、イギリスを舞台にくり広がられたのだった。前半の捜査の物語より、こちらの冒険譚の方が面白い。すこしながら残念なのは、あまりにテンポよく書き飛ばしたために、梗概を読んでいるように味気ないこと。そのうえできたばかりのモルモン教をカルト宗教に仕立て上げて、19世紀後半にはありえないような憎悪と復讐の物語にしたこと。この作家は無名時代にマリー・セレスト号のドキュメンタリーを脚色して、それがあるはずのない「謎」を流通させるくらいのことをしたのだけど、ここでも似たことをしている。宗教教団の批判など自由にやればいいのだけど、その批判の仕方に悪意があり、偏見を助長する意図があるとすると、これはちと問題。
 そのうえで興味深かったのは、1880年代にはアメリカはヨーロッパよりも遅れた国であり、伝奇小説やゴシック・ホラーの舞台にふさわしいと思われていたこと。ウォルポール「オトラントの城」のような怪奇の場所は国内にはもうなく、東欧(ストーカー「吸血鬼ドラキュラ」)やアフリカ(ハガード「ソロモン王の洞窟」)のような辺境にあるものだったが、おなじようなエキゾティックな場であるとアメリカは思われていた。第2部の因縁譚はハリウッドの西部劇映画と時代をともにしているので、西部劇映画を思い浮かべながら読むといい。
 この長編は1887年の作で、ガボリオ「ルコック探偵」1869年のほぼ20年後にあたる。驚くほど小説の進化が見られなくて、このふたつの小説は同時期の作品と思ってもよいくらい。それでも、スティーブンソンやハガードのような同時代のエンタメ小説に比べると、圧倒的に現代的。その理由の一つは、風俗や生活の描写を極力していないことだろう。服装、嗜好品、室内装飾、流行などがほとんどかかれない。そのような抽象的な空間と文体が100年を超えても再読に耐えることになり、言語の違いを超えた読者を獲得したのだろう。

      

 「シャーロック・ホームズの回想」で一度ホームズを葬ってしまった。そのため以後の作品では、ときに過去の事件を物語ることがある、その結果、事件を発生純に並べ替えることが極めて困難になってしまった。とくに問題になるのは長編「恐怖の谷」。熱心なホームズ・ファンはどうにかして発生順に並べたリストを作っている。たとえば、以下のサイトを参照。
時系列で楽しむ「シャーロック・ホームズ」全話あらすじ解説 - NAVER まとめ