odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

石津嵐/豊田有恒「宇宙戦艦ヤマト」(ソノラマ文庫)

 「宇宙戦艦ヤマト」は1974年にテレビアニメで放映。そのときは人気がなかったが、1977年夏に総集編の映画が大ヒット(おれも映画館に並んだ)。翌年にアニメ映画「さらば宇宙戦艦ヤマト」がでて、テレビアニメ「宇宙戦艦ヤマト2」が放映されて大人気に。そこらの経緯は宇宙戦艦ヤマト - Wikipediaに詳しいので、リンク先を参照。アニメの展開とあわせて、マンガが連載された(松本零士、ひおあきらほか)。
 さらに、このようなノベライズもでた。ソノラマ文庫の第1作で1975年初出。巻末に1977年当時の目録がのっているが、ああ、いくつも読みたい本がある。当時はすでに文学とミステリーと新書に入れ込んでいたから、ジュブナイルには目もくれなかったけど、ちょっともったいなかった。

 さて、この小説、アニメのストーリーと大きく異なる。上記wikiによると、「豊田有恒によれば『99.9%石津の仕事』とのこと」だそう。それでアニメでファンになった若者は文庫を読んで戸惑ったのだった。
 すなわち、映画やマンガではガミラスの長距離無差別爆撃によって滅亡の危機に瀕した地球が乾坤一擲の勝負で日本の「宇宙戦艦ヤマト」計画にかけ、100名ほどの乗組員の特攻チームを派遣し、アタック・アンド・エスケイプのすえに放射能除去装置「コスモ・クリーナー」を持ち帰るというストーリー。大半は、ガミラス星宇宙艦隊と多対一の会戦を繰り返し。いかに衆を寡が破るか、その奇策に注目するものだった。ときにガミラス全体主義軍国主義の政治体制とヤマトの「民主的」な艦隊運営が対比される。「地球の滅亡」という限界状況に、選ばれたものがアルゴー船にのって、世界を救う聖杯を持ち帰るという神話的な構造に魅かれたのだった(10代の自分もそういう一人だったことを告白せねばならない。大きくなったら「ヤマト」の乗組員になりたいと願ったものだ。自分の空虚さをこんな夜郎自大ナショナリズム共同体主義で埋めたかったのだろう。ああ、当時オウムがなくてよかった。)
 さて、アニメと小説の違いにフォーカスしながら、いくつか。
・基本設定が昭和19-20年の日本を模して、フィクショナルに「日本勝利」を描いたものとよく指摘される。全くその通りで、国の領土の辺境が侵略され、島(惑星)伝いに強襲され全滅し、本土が空爆される。そこにおいて人的・物的リソースが枯渇したとき、秘密兵器による特攻的な逆襲で敵軍を殲滅する。そのうえ「敵」は帝国主義的な侵略国であり、平和で穏健な日本を怒らすほどの強硬な集団とされ、それに抵抗することは民族自立の大義からいって正当である。秘密計画は優秀な技術者と献身的な兵士によって遂行され、指導者や指揮官の無茶な要求を禁欲的で規律正しい国民がよく耐えてミッションを実現するのである。以上は、昭和19-20年の失敗や悲惨を覆したいという欲望の現れ。
・この秘密計画。プロジェクト・マネジメントからいうとむちゃくちゃで、スケジュールが極めて厳しく、資源と技術が不足しているのに、無理やりスタート。プロジェクトの構成員は老境にある指揮官と若者だけ。経験と知識ある中間層はまったくいない(技術担当の真田のみ)。男女比の極端な偏りはコミュニケーションに問題を発生させそう。艦内は快適には程遠く、生活を軽視している。ミッションの達成が困難に見えても、「こんなこともあろうかと」準備されていた技術者の不眠不休の努力で奇跡的に達成されるとする。このあたりは、旧日本海軍に見られた問題をそのまま引き継いでいるし、現在のブラック企業やITのデスマーチが引き継いでいる。
参考エントリー:
池井戸潤「ルーズヴェルト・ゲーム」(講談社文庫)
・アニメ版ではヤマト発進までは全26話中3話しか使わない。小説版では、全体の3分の1。アニメで省略されたプロジェクトの企画段階が詳しく書かれているので、上のプロジェクト・マネジメントの問題がとてもよく表れている。
・地球発進後、アニメでは艦隊決戦が繰り返されるが、小説では艦内のコミュニケーション不全がテーマになる。沖田艦長(物理学者なんだって!)が古代や島らの若い士官を掌握できない、真田や佐渡の中間管理層が若者から浮いている、若者らの思慮の浅い判断と行動でスケジュールの変更が相次ぐ、古代と島と森に三角関係が起こり艦船航行に支障が発生する、死んだ古代進の兄・守の残像が沖田と進を呪縛する、など。後半では艦内事故が多発し、真田が密室で殺され、放射能漏れで乗組員の大半が死亡。イスカンダル星に到着したときには8人しか残っていない。危機管理とマネジメントからすると、このプロジェクトは失敗している。
ガミラスイスカンダルの意外な正体。そして死滅に瀕した人類への意外な再建提案(提案の前ふりとして、ボルゾン星において反機械・反テクノロジー・自然回帰の主張が語られる。公害被害の最もひどい時期の直後だったから、この主張があったのかもしれない。そのうえでの人類存続の提案に同時代の若者は困惑し、苛立ち、ついに無視した。ファンの妄想、すなわち、ヒロイックな感傷、自己犠牲の賛美、ありえたかもしれないもうひとつのかっこいい自分の投影など、を完全にぶち壊すものだったから)。
・もうひとつ、今回の再読でいらだつのは、地球が滅亡の危機を迎えるにあたり、「本土決戦」やレジスタンスを選ばなかったこと。冥王星から順に外惑星を侵略してきたガミラスは火星まで来て、なぜかそこで進軍を止める。なので「本土」を戦場にして戦うことはなかった。戦闘はつねに「本土」の外で、そこに誰かが住んでいたとしても、巻き込まれて死ぬものには無関心でいられた。ここにはどうにも納得しがたい。アメリカ映画「インディペンデンス・デイ」は、「ヤマト」と同じく異星の侵略者に対抗する話。ここではちゃんと本土でレジスタンスをやっていた。アメリカの独立記念日には独立戦争が疑似的に再現される。本土で帝国軍や侵略軍に抵抗した記憶を呼び起こし、抵抗を行った草の根民主主義を確認するためだろう。映画はそのような「神話」の語り直し。好きな映画ではないは、ここには共感する。対して、抵抗レジスタンスの経験に乏しいこの国の独立や民族自決の観念の底の浅いこと。
(ほかに、沖田-古代兄弟の擬似的な父子関係、そこでの子による父の乗り越え、兄弟間の葛藤(なにしろ同じ姿の女性に恋するくらい)などのテーマもあるが、ここでは省略。)