odd_hatchの読書ノート

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フョードル・ドストエフスキー「エドガー・ポーの三つの短編」(米川正夫訳)

フョードル・ドストエフスキー

エドガー・ポーの三つの短編

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 エドガー・ポーの二、三の短編は、すでにロシヤ語に翻訳されて、わが国の雑誌に掲載された。われわれはまた新しく三つの短編を読者に捧げる。彼はじつに奇妙な作家である、――大きな才能を持ってはいるけれども、まさしく奇妙な作家なのである。彼の作品をいきなり怪奇小説の中に編入することはできない。もし怪奇だとすれば、それはいってみれば、外面的にである。たとえば彼は、五千年もピラミッドの中に臥ていたエジプトのミイラが、電気療法によって生き返る、などということを設定している。また死んだ人間が、これもやはり電気の力によって、自分の魂の状態を物語る、等等の設定もしているのである。しかし、これはまだ端的に、怪奇小説の類とはいわれない。エドガー・ポーはただ不自然な出来事の外面的な可能性を設定しているにすぎない(もっとも、その可能性をちゃんと証明している、時としてはきわめて巧妙に)。こういう出来事を設定しておきながら、その他すべての点では、きわめて現実に忠実なのである。たとえば、ホフマンの怪奇性はこんなふうではない。彼は自然のさまざまな力を、一定の形象において人間化する。物語の中に魔法使いや亡霊などを登場させ、時としては自分の理想を地上以外のところ、何かしら異常な世界に求める場合さえある。彼はその世界を一種高遠なものと認めて、この神秘な魔法の世界が必ず存在するに相違ないと、みずから信じているかのようである………エドガー・ポーのほうは怪奇作家というよりも、むしろむら気な作家というべきであろう。しかし、そのむら気のなんと奇妙なことだろう、なんと大胆なことだろう! 彼はほとんど常にもっとも特異な現実を取って来て、自分の主人公をもっとも特異な外面的、もしくは心理的な状況に置くが、その人間の魂のあり方をなんと驚くべき正確さをもって物語ることだろう! のみならず、エドガー・ポーにはまぎれもない一つの特色があって、それが彼を他の作家と画然と区別し、それが彼の著しい特質となっているのである。ほかでもない、それは空想力である。といっても、彼が他の作家よりも空想力がすぐれているわけではないが、彼の空想の才能には、他のいかなる作家にも見られない特異な点がある。それはデテールの力である。たとえば、諸君自身なにか異常なもの、現実で経験したことのないものながら、ただし可能なものを想像してみたまえ。諸君の眼前に描き出される形象は、程度の差こそあれ、常に場面の一般的な輪郭にすぎないか、さもなければ、その一部分の特色をとらえるにすぎないであろう。ところが、ポーの小説の中では、描かれた人物なり事件なりのデテールが、すべてまざまざと目に浮かんでくるので、ついには読者はその可能性、現実性を確信せざるを得ないような気持ちになる。しかも、その事件はほとんどまったくあり得ないか、あるいはかつてこの世に生じなかったようなものである。たとえば、彼の短編の一つに、月世界旅行を描いたものがある。その描写は詳細をきわめたもので、ほとんど一時間ごとの経過が語られているので、読者はそれが実際におこり得たかのように、確信させられるのである。まったくそれと同じように、彼はある時アメリカの新聞に、気球でヨーロッパからアメリカへ、大西洋を横断して飛行する話を掲載した。その描写がじつに詳細をきわめており、まったく思いもよらぬ意想外な、偶然な事件に充満しており、現実の出来事らしい形をそなえていたので、すべての人がこの飛行を信じてしまった、もちろん、ただ数時間のあいだだけであったが……その時すぐ照会してみた結果、そんな飛行などぜんぜんなく、エドガー・ポーの物語は、新聞の捏造したセンセーションにすぎないことがわかった。それと同じような空想力、というより想像力は、手紙紛失事件、パリでオランウータンの遂行した殺人事件、宝の発見物語、などといった作品に発揮されている。
 人はよく彼をホフマンに比較する。が、前にもいったとおり、それは正確でない。その上、ホフマンは詩人として、ポーより量り知れないほど高い素質をそなえている。ホフマンには理想がある。もっとも、それは時として不正確なたて方をされることもあるが、しかしその理想の中に純潔さがある。人間に固有な真実のまがいなき美が存する。それは彼の非幻想的な作品、たとえば『マルチン先生』とか、あるいは、この上もなく優美な愛すべき中編『サルバトル・ロ-ザ』などに、はっきり現われている。彼の最上の作品である『牡猫ムル』のことについては、もう何もいわないことにする。これはなんという成熟した真のユーモアだろう、なんという現実の力だろう、なんという皮肉だろう、なんという典型、なんという見事な肖像画だろう。またそれと並んで、なんという美の渇望、なんという明るい理想だろう! ポーには、よし怪奇性があるとしても、それはなにか物質的なものである、もしこんないい方ができるとしたら、である。彼はどうやら、もっとも怪奇的な作品においてすら、完全にアメリカ人であるらしい。このむら気な作家を読者に紹介するために、さしあたり彼の小さい短編を三つ掲戦する。


米川正夫(訳者)による解説
エドガー・ポーの三つの短編』
 おなじく翻訳にたいする編集者の序言の形で、おなじく一八六一年『ヴレーミャ』一月号に掲載され、おなじくグロスマンによって認定された。ポーとホフマンとの比較が面白い。


ラスネル事件

 われわれは時々本誌に有名な刑事事件を掲載したら、読者に喜ばれるのではないかと思う。それはいかなる小説よりも興味がある。なぜなら、それは芸術のふれることを好まない人間の心の暗黒な面を照らし出して見せるからである。芸術はそれにふれるとしても、ほんのちょっと挿話の形で物語るだけである。こんなことは今さらあらためていわずとも、こういったような事件を読むことは、ロジャの読者にとって無益なことではないような気がする.われわれの考えるところによると、わが国の雑誌にしばしば掲載される理論的な考察のほかに、西欧におけるさまざまな事件に、こうした考察を実際的に属(しょく)目的に適用するということも、本誌の読者にとって同じく無益のわざではあるまい。われわれはもっとも興味ある事件を取り上げていくつもりである。その点は保証する。今ここに掲載した事件は、ひとりの人間の個性を浮き彫りにして見せているが、それは世にもふしぎな、謎のような、恐るべき、しかも興味ある性格なのである。卑しい本能と、困窮に屈した心の弱さが、彼を犯人にしたのであるが、彼はずうずうしくも自分を時代の犠牲として押し出そうとている。しかもその上に、方図のない虚栄心がひそんでいるのである。それは、虚栄心が最後の段階まで行きついたというタイプである。本誌はこの事件を正々堂々と、公平無私に取り扱って、銀板写真か、生理学的図表のような正確さで伝えている。


米川正夫(訳者)による解説
『ラスネル事件』
 一八六一年『ヴレーミャ』の二月号に掲載された。これもダイジェスト的な翻訳にたいする編集者の序言である。おなじくグロスマンが認定して、前記の全集に収めた。ドストエーフスキィの刑事事件にたいする異常な興味は、周知の事実であるから、彼の筆であることは、だれしもうなずけるといえよう。

フョードル・ドストエフスキー「全集20 論文・記録 下」(河出書房)
昭和46年2月27日 初版発行
昭和52年7月20日 6版発行