odd_hatchの読書ノート

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フョードル・ドストエフスキー「死の家の記録」(河出書房)-3

2020/02/10 フョードル・ドストエフスキー「死の家の記録」(河出書房)-1 1860年
2020/02/07 フョードル・ドストエフスキー「死の家の記録」(河出書房)-2 1860年
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 監獄には、信心深いもの、せこいもの、他人のいいなりになるもの、強いものに取り入ろうとするもの、無気力なもの、病人などさまざまな人がいるが、「わたし(アレクサンドル・ペトローヴィチ)」が興味を惹かれるのは、圧倒的に犯罪者。もちろん監獄の中では盗みは大っぴらに行われていて、借りたものは返さないのがあたりまえなのであり、だれもかれもが犯罪者である。そのうえ、囚人は過去を語りたがらない、とりわけ収監されることになった事件については。それについて詮索することは監獄の中では禁忌。
 それでもなお、より大きな犯罪に手を染めたがり、あるいは過去に犯した犯罪を告白する者もいる。「わたし」はそれに目を向け、耳を傾ける。たとえば、監獄のなかでは酒はご法度であるが、町にでたときに酒を持ち込み販売するグループがある。元締めは販売のみ。金を持たないもの、安く酒を飲みたいものが持ち込み役になる(その手口が面白い)。ときに、新入りが脱獄を試みたりする。監獄で犬や鵞鳥を飼えば、知らぬ間に姿を消し、シチューや焼き肉になって売られている。あるいは、深夜寝静まったころに、気の置けない仲間にこっそりと自分の犯罪を打ち明ける(第2部第4章「マクーリカの亭主」:今日ではDVの加害者としてもっと早期に逮捕される案件。この時代、女性の権利はほぼなく亭主によって女房が痛めつけられるのは常だった。だからチェルヌイシェフスキー「何をなすべきか」で男女同権の主張とその理想が語られた時、大きな反響になった)。
 このような犯罪、重罪を犯すものが常に平静でいられるかというとそうではなく、監獄内で失態や違反を犯したときに鞭打ちを処せられることになる。そうすると、処罰の数日前から神経質にない、落ち着かない。時には仮病を使って、むち打ちの時間を引き延ばそうとする。そのような小心さが出る一方、むち打ちの苦痛には耐え、病室でうつぶせになってもうめき声すら出さない(皮膚を切って血を流す民間療法ではおおいに暴れ、苦痛の声を上げるのと対照的)。
 犯罪者といっても類型的な存在ではなく、犯罪の背景も異なる。普通の人たちと異なるのは、ある一線を超える行為をしたこと。良心、道徳、信仰、法などの内面化・外在する規範やルールを逸脱する瞬間を持ち、その跳躍をしたあとはもとにもどる、行為をなかったことにすることができない。帰還不能点を超えた後は、その先を進むしかない。このような人間は少数ではあるが、特異であると同時に、一般性を持っている。その内面の複雑さは普通の人の比ではない。ドスト氏が監獄体験でみたのは、そのような存在である犯罪者。このあとの小説はたいてい犯罪が描かれ、極悪から小悪党までの犯罪者が登場する。ときに犯罪者は強烈な個性と思想を持って、読者を圧倒する。
 犯罪が人間の内面の深奥までを照射し、犯罪が社会の矛盾をさらけ出し、社会を混乱させ活性化する。たんに悪いというだけではなく、彼の跳躍した一線である良心、道徳、信仰、法などを再検証し、場合によっては線引きを変えるくらいに思考しなければならなくなる。そういう契機を与える人間の営為で犯罪はとても重大なものだ。特異ではあるが日常的でもある。それをドスト氏は監獄で見つけ、小説の方法とする。この小説では犯罪者は小物ばかりであるが、「虐げられた人々」のワルコフスキー公爵や「地下生活者の手記」の「ぼく」などの素描を経て、「罪と罰」以降の長編の様々な犯罪者に結実する。

 

        

 

 作曲家レオス・ヤナーチェクがオペラにした。小説のいくつかのシーンを抜粋して再構成したもの。