odd_hatchの読書ノート

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フョードル・ドストエフスキー「死の家の記録」(河出書房)-2

2020/02/10 フョードル・ドストエフスキー「死の家の記録」(河出書房)-1 1860年
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 書き手の「わたし(アレクサンドル・ペトローヴィチ)」は貴族として入獄する。彼は、監獄で初めて民衆と出会ったと述懐するのであるが、彼の観察はそれほどでもない。すなわち、他の民族出身者は彼らに交わらない。ポーランド人、ダッタン人、その他の民族出身者がいるが、ロシア人の囚人は仲間に入れない。時に彼らを馬鹿にする。ロシア人と言語を同じにしない人々はバカにみえ、そのように扱う。ロシア人の貴族には見えない人がいる。
 それはロシア人のなかにもあって、民衆(農民、放浪者、町人、兵士など)も貴族に距離を置く。彼らの前では慇懃であるが、陰に回ると何を言われているのかわからない。なかには、貴族の下僕になることを志願するものもあるが、ごく少数。というのは物腰から語彙まで違い、知識の量が異なる。同じ言語を話していてもなかなか通じない。なので、インテリでもあった「わたし」は民衆の中にはいれず、孤独を感じている(これは階層がそうしただけとはいえず、この男の行動性向がそうしむけたのでもある。数名しかいない貴族と「わたし」は打ち解けることができないのだし)。民衆からの拒否は、第2部7の「抗議」に典型的に表れる。食事のまずさに憤った囚人たちは、要塞署長や将軍などに待遇改善を要求するために、庭に集まる。事前に協議された計画は「わたし」には知らされていない。集合の合図と聞き間違えた「わたし」が中庭にいくと、そこに集まった囚人からここにいるなと警告され、食堂に追い立てられる。貴族であることが民衆からの反発を買っていることの証(そのためか「わたし」による囚人のポピュリズム批判は激烈。民主主義はドスト氏にはあわないらしい)。
 では、民衆は権力の空白において、組織化され生活や労働の改善に向かうのかというとそういう兆しはない。長い囚人生活では刑期をおえて出獄することが大事と皆思うようになり、大事なく過ごすことが重要と考えるようになる。それでいて他人の不幸や失敗に共感を示すことはない。多くは退屈な監獄を無為に過ごし、賭博や酒におぼれたり、闇屋や高利貸しをあくどく行ったり。ときに信心深いものもいるが、たいていはバカにされ、ときどき敬われたりする。集団生活の中で自己研鑽や生活改善を試みるものはまずいない。そのような民衆を「わたし」は受け入れることができない。
 このような次第を詳細に描くとき、ドスト氏は空想的社会主義ナロードニキの主張が崩れているように見たのかもしれない。空想的社会主義は各人が自由に生きるときに「宮殿(水昇宮)」を立てると夢想したが、そのような組織化集団化は行われない。ナロードニキは民衆の中へと運動を行ったが、民衆は彼らを受け入れない。そのような民衆の現実をロシアの監獄でみたときに、都市やサロンでおしゃべりする思想の薄っぺらさを見たのかもしれない。のちの「夏象冬記」「地下生活者の手記」にみられる民主主義や社会主義への嫌悪や批判は、ドスト氏の体験や本書の執筆で深められたのかもしれない。
(民衆はそうしたものと突き放しもしたいが、彼らは教育を受けていなく、農奴制のある社会ではリーダーシップや共同作業の訓練をすることもなかった。のちの1917年ロシア革命では都市住民は帝政崩壊後に自治を一時的に行えた。)
 囚人は自由を渇望する。不自由よりも耐え難いのは、強制的な集団生活。プライバシーがないこと、一人でいることを楽しめないこと、常にだれかに見られていること。無為であり、集団の目的を持てないこと(芝居上演が近づくと盗みや喧嘩がなくなるというエピソードがそれを証しする)。それが囚人をスポイルし、意欲や希望を失わせていく。肉体的な苦痛は耐えられるが(むち打ちでさえも)、人生や生活の意味のなさは耐えられない。懲罰は人格を更生しない(教育とカウンセリングが必要なのだ)。19世紀の監獄生活から見えてくるのはこういうところ。

        

 

 作曲家レオス・ヤナーチェクがオペラにした。小説のいくつかのシーンを抜粋して再構成したもの。

      

2020/02/06 フョードル・ドストエフスキー「死の家の記録」(河出書房)-3 1860年