odd_hatchの読書ノート

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フョードル・ドストエフスキー「弱い心」「人妻と寝台の下の夫」「正直な泥棒」「クリスマスと結婚式」(河出書房)

 以下は河出書房新社版全集第2巻に収録された中短編。1848年に発表されたもの。

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弱い心 1848 ・・・ 長年ルームシェア(という言葉は出てこないけど)しているアルカージィとヴァーシャの青年下級官吏。大晦日の晩にご機嫌で帰ってきたヴァーシャを問いつめると、婚約したとの由。それはいいと婚約者の家にいって(流行の帽子をプレゼント)、どんちゃん騒ぎ。帰宅中にヴァーシャが突然不機嫌になった。仕事が終わっていない。徹夜する。それでも仕事が終わらない。有頂天になっていたヴァーシャは3週間も婚約者の家に通い詰めていて、上司の直々の依頼の仕事をすっかりうっちゃっていたのだ。それからヴァーシャは熱に浮かされたようになって、ふいに姿を消してしまう。アルカージィが町中を探すと、その上司の家にいたのだ。ヴァーシャの「弱い心」が押しつぶされてしまう。うーん、時代が違い過ぎて、この残業問題をどういってよいのやら。上司のマネジメントや当人のタイムスケジュール管理とか、いろいろ不備がめについて。ヴァーシャの「弱い心」は産業のメンタルケアの問題になる。途中までアルカージィが婚約者を横取りするかと思った(独身男性のルームシェアと過剰に熱い友情が乱歩の初期短編みたいだったので、そこから発生した邪推)が、エピローグではそうではなかった。あと、この短編の主人公は都市だな。官僚支配と時間管理下にある都市が市民の生活を抑圧しているのだ(その点では「罪と罰」の先駆)。

人妻と寝台の下の夫 1848 ・・・ 夕暮れ、街で人を待っている青年に中年の男が話しかけた。婦人を見かけなかったか、と。どんなと問い返すと中年男は問いに答えないでただ喋りまくる。あんまりなれなれしいので、振り切ろうとしてもついてきて、あるアパルトマンに一緒に入り女の部屋を見張る。女が出てきたときのどんでん返し。2部はその中年男がオペラにいって婦人を見張っている。出て行った後をおいかけて、あるアパルトマンの女の入った部屋に侵入すると別人の部屋。ベッドの下に隠れると、なんと別の青年がいた。そこに女の情夫が帰ってきて、さわがしくすると見つかるというのに、中年男はおしゃべりをやめない。いやあ、笑った、笑った。後半で、ベッドの下に二人もいて、ほこりをたてるものだから、みんなくしゃみをするところなんかも(ナイチンゲール「看護覚え書」にあるように、19世紀の半ばには衛生観念などまずなく掃除はしない)。なれなれしい男が青年に話しかけるというのは、乱歩や谷崎潤一郎にもあったなあ(「一枚の切符」とか「途上」とか)。この中年男は自称「独身」であって、田舎から出てきたもののコミュニティに入れずに、ひとりで都市をふらふらしている高等遊民。他人との関係がうまくとれなくて、妙になれなれしいか、遠くから観察するか。退屈を紛らわすのは、イベントやパフォーマンスに無名の観客として参加することだけ。横の席の人とは話もしないが、舞台の上にいる遠い演技者には親近感を覚える。そういう都市の人々の在り方が19世紀半ばにすでに描写されているのに驚き。ベンヤミンなんかの7-80年前だぜ(まあポオとかボードレールの先進国の文学者とほぼ同時期に発見していたのだ)。すごい。

正直な泥棒 1848 ・・・ 下宿に間借り人を入れることにしたら、数日後、外套を盗み出そうとした。なぜやったのかと問い詰めたら、同じような可愛そうな貧乏人のはなしをする。真実かどうかはさておき、いいわけだけでたぶん400字×50枚はありそうだから、こいつはえんえん1時間はしゃべりとおしたわけか。すごいな(しゃべったほうも、記録したほうも)。語り手の「わたし」は引きこもり気味の青年。地下生活者やラスコーリニコフやイワン@カラマーゾフの兄弟の先駆が登場してきた。ドスト氏を読むと、こういう系譜を想像して、それでなにか言ったつもりになってしまうから注意(でも楽しい)。

クリスマスと結婚式 1848 ・・・ あるクリスマスででっぷり太った男が持参金30万ルーブリの女の子をえこひいきしていて、女の子はニコニコ。それから5年後、太った男の結婚式に遭遇。泣きはらして放心した女性はあのときの女の子。まあ、どうでもいい。


 訳者で解説の米川正夫は人物の類型摘出と細部までのえぐりだしに興味をもっていて、人物造形の手腕で評価する。なので、「人妻と寝台の下の夫」は「いささかあくどいファルスに堕している(P408)」で、ゴーゴリの亜流でその笑いには遠く及ばないとしている。
 おれはむしろファルスに徹してどたばたを演じきったところにおもしろさや新しさを感じるので、米川がだめとしたところがむしろ優れていると思う。「人妻と寝台の下の夫」の第2部のベッド下の騒ぎなんて、リアリティなぞどこへやら、シチュエーションを極限まで書き込むという意欲を感じて、哄笑しっぱなしだった(このあとの弁明や帰宅後の外套のポケットからとびだしたものなども)。最後のを除けば、ドスト氏はドタバタで滑稽でスラップスティックな笑いを描ける力量をもっていた。この資質はのちの「罪と罰」以降の長編でもぞんぶんに発揮されていて、それが悲惨と同時に進行することによる想像力の喚起になっているところは知られている通り。ドスト氏とゴーゴリを同列にするのもどうかなあという感想。
 もちろん今の基準で読めば、あまりにも冗長で饒舌。三分の一くらいに刈り込みたいが、そうするとドスト氏の魅力は消えるので、うまくいかないだろう(デュマやユーゴ―の圧縮はうまくいっているのにねえ)。