odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

フョードル・ドストエフスキー「ネートチカ・ネズヴァーノヴァ」(河出書房)

 つねに自分が苦労するように選択し、自分が貧乏になるように行動してしまう女性「ネートチカ・ネズヴァーノヴァ」の告白(1849年)。まとめのために、原作にはない「第〇部」をつける。

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 第一部。夫と死別した母が再婚したのは、オーケストラのバイオリン弾き。たまたまバイオリンを手に入れ、才能のひらめきを見せた後、その自尊心は膨れ上がり、傲慢になって、他人をけなす。そのくせ努力することはせず、したがって力量は落ちていく上にそれをわきまえず、こらえ性のなさは敵をつくってばかり。賭博好きで、酒におぼれるとなると、オーケストラを解雇されエキストラの奏者になるしかないが、そんな男に仕事を頼むものはいない。母のなけなしの金を盗んでは、居酒屋に入り浸り、自分を賛美する下賤なものを従えて、刹那に生きるのである。あるとき、高名なバイオリニストSがペテルブルクに来た時、偶然手にした切符で本物の音楽に触れたとき、Sと己の差、真実の芸術を目の当たりにして、自尊心は瓦解。母を殺し、狂気の内に死ぬ。こういうダメな男のダメさをこれでもかと暴く筆致はすばらしい。あまりに生々しいので、嫌悪感がいや増すのだが。(ここには夫による妻殺しがある。このときの夫の心象がのちの「おとなしい女」になったと妄想したりしてみる。)
 奇妙なのはそのようなダメ男と、勤勉であるが貧乏に打ちひしがれた母を見比べたネートチカ(8歳)は父を選び、母を憎むのである。それは両親の確執を増すことであり、家をさらに貧乏にすることであるが、にもかかわらず父の肩を持ち、母に冷酷になる。このようなネートチカの感情は俺の共感のそと(ドスト氏の筆のおかげでよくわかる)。たとえば、業田良家のマンガ「自虐の詩」の主人公たちがこんな感じになるのか。この小説には、マンガのような悟りや平安は訪れないのが違う。
 第二部。父母を亡くし、みなしごになったネートチカはH伯爵(父にバイオリニストSのチケットをプレゼントした人物)が引き取ることになった。極貧の生活から貴族の生活に変化したネートチカは新しい生活に適応できない。重苦しい雰囲気を与える無口で無気力な子供になる。彼女はすみっこに隠れるようにくらしていたが、同い年の令嬢に強く魅かれる。令嬢の興味を引こうといろいろやるが、令嬢には「あんたは嫌い」といわれてしまう。あるとき、令嬢が不始末をしたときに、自分がやったと告白して屋根裏部屋に監禁。そのことを忘れられて重病になる。そのときから令嬢がネートチカを好きになり(とはいえ8歳同士)、起きている間中、一緒にいるくらい(何度も接吻している)。
 ネートチカの極端に低い自己評価と自尊心のなさで、他人の興味を引くために、自らを奴隷のようにふるまわせる。他人に対して卑屈になり、進んで苦労や受難を引き受ける。こういう感情や振る舞いは幼少時代にあるし、とくに親からネグレクトされた子供にありそうだ。他者との関係の持ち方が極端にふれてしまうのだね。書かれた時代によくもまあ、このモチーフを発見したものだ。ネートチカの場合は、令嬢との不適切な関係が見つかって(ネットだと百合小説とされているが、 10歳同士じゃ無理でしょ)、令嬢とネートチカを離す(令嬢をどこかの寄宿学校に入学させる)ことで解決。理解ある同性の大人が教育することで、ネートチカは自尊心の回復と自立に至ったようだ。さらっと書き流しているが、ここが重要なのだろう。
 第三部。カーチャがいなくなったので、継姉のアレクサンドラがネートチカの教育者になる。ここで基礎教育をうけるが、書斎の秘密の鍵を手に入れて、本を乱読する(とくにウォルター・スコットがお気に入り。この時代の女性としてはめずらしいのではないか)。ネートチカ16歳。ある本の中にアレクサンドラの隠したらしい手紙を見つける。あるとき書斎で読んでいたら、夫に見つかり、叱られる。男の手紙だと思われてしかられるが、ネートチカは黙秘。アレクサンドラの秘密を抱えて、ネートチカは追い出されることになる。
 第三部はドスト氏の書いたものの中で最もつまらないものではないかなあ。ネートチカの観察はとても緻密であるけど、対象の家庭の問題が陳腐であって、それ以前に出てくるような奇矯な人物や社会の問題の象徴になっていないから。19世紀後半になると、冷え切ったブルジョアや貴族の家庭は探偵小説のかっこうの題材になった。だから手紙の発覚から犯罪が起きていれば、最初期の探偵小説になったものを。ネートチカは家族の除け者だから、探偵にはぴったりだった。


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 さて、ドスト氏の創作はここで一端中断。この長編も中断されて、再開されることはなかった。すなわち、ドスト氏は1849年、ペトラシェフスキー事件に連座して、シベリア流刑になるからである。その後兵役に就くなどして所在を転々と変える。ペテルブルグの帰還は1858年。