odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

フョードル・ドストエフスキー「プロハルチン氏」「主婦」「ポルズンコフ」(河出書房) デビュー後の中短編。試行錯誤中。

 以下は河出書房新社版全集第1巻に収録された中短編。

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プロハルチン氏 1846 ・・・ 安下宿に長年寄宿している下級役人のプロハルチン氏。けちで他人を寄せ付けない偏屈な男。それがある晩姿を消し、体調を崩して帰ってきた。譫妄状態になり、ついに死亡する。プロハルチン氏にいたずらをしかけていた下宿人たちは、彼のベッドを調べることにする。貨幣経済が進むと、貨幣のさまざまな価値のうち、流動性に魅せられて、退蔵に至る人がいる。そういう事例が貧乏人にいるというのが、この滑稽小説の主題かな。

九通の手紙に盛られた小説 1847 ・・・ 解説を読んでようやく筋が分かった。二人のいかさまカルタ師が一人の青年に取り込んで金を毟っていたが、儲けの分け方をめぐって仲間割れ。その間に、青年はいかさまカルタ師二人の妻を手玉に取っていた。江戸川乱歩にありそうなトリッキーな仕掛け。時代と文体が違い過ぎてわけがわからなかった。

主婦 1847 ・・・ 大学を出たオルディノフ君、小銭があるのでのらくらしているが、暮らしが退屈なので、下宿を変えることにした。街を歩いているとき、美人に一目ぼれ。相手にも脈がありそうで、いそいそと部屋を借りる契約を交わす。その日からオルディノフ君は熱を出してしまったが、美人カチェリーナは看病してくれる。これは気があるなとオルディノフ君はたちまちいちころ。とりわけ、美人が自分の身の上を話してくれたことがオルディノフ君の愛情をさらに燃え上がらす(住んでいる父は実は義父であり、自分は母の不義の子。それを教えてくれた得体のしれない男は親を殺し、一緒に外を出ようと誘惑する。ある夜、ティーンエイジの美人は実行してしまい、その男とつかず離れずの暮しをしているのだ。30代の男が10代の少女をそそのかし、以来十数年が立ったと思えばよい。こういうカップルはめずらしいものではない)。奇妙なのは美人が老人にかいがいしく尽くしていることで、オルディノフ君にも関係が分からない。あるときオルディノフ君の友人がおせっかいにも彼らの関係を暴露。そのうえ美人は「病気」だといわれて意気消沈。あえなくオルディノフ君の愛情は冷めてしまった。シニカルにサマリーを書くとこんな感じ。学識豊かといわれながらも世間知らずの坊ちゃんのひとり相撲で、かってに盛り上がってかってにしょげてやる気を失う。ツルゲーネフ「父と子」のバザーロフより、このオルディノフのほうがニヒリストにふさわしい。
 気になるのは、卑屈で傲慢、わがままで自己卑下という矛盾の塊の老人ムーチン(たぶん美人カチェリーナの夫)。オルディノフが勝手に妻に熱を上げているのを冷ややかに、しかし面白がってみているが、真実をしって部屋を出ていく(すなわち、ムーチンの収入がなくなる)のを弁明しようとしてこんなことを言いだす。

「弱い人間に地上の王国を半分やってごらん。すぐに靴の中に隠す。弱い人間に自由をやってごらん。自分でその自由を縛り上げて、返しに来るから。馬鹿な人間には自由もかえって為にならんのだ。」

 ほかの作品でも登場人物が「自分は自由主義者ではない」というのだが、その理由は政治的な過激さではなく、このような人間省察に立脚したもの。まあ、自由を本来的にこなせるほど人間はまだ十分に成長していないというわけか。自由主義を批判するにはこの理屈はおかしい(個人は自由を使いこなせないかもしれないが、集団であれば均衡や安定を得られると自由主義は考えるのでね)のだが、この言葉を無教養で粗野な男に語らせるのが素晴らしい。社会の底を見せながら、叡智があふれてくるのを見るような。この対位法の効果ときたらたいしたものだ(後年の「大審問官」に及ばないにしても)。あいにく冗長にすぎるのと、オルディノフが見かけよりもバカなのにイライラするのが難点。

ポルズンコフ 1848  ・・・ どこかで客のひとりがテーブルにのって、自分の失敗談を語りだす。万座の人の前で。賄賂を受け取っただの、恋人に振られただの、冗談の辞表が受理されてしまっただの。自尊心と自己卑下が同居し、露悪と饒舌で自分の不始末を語るほどに陶酔して言葉が止まらなくなる。あるいは道化を演じて関心を自分に向けようとする。今でもいるよなあ、こういうやつ。「カラマーゾフの兄弟」のミーチャのはるかな先駆。


 訳者の米川正夫は「主婦」を「ドストエフスキーが書いたすべての作品を通じて、形式の未熟という意味でも、また発想の不完全さにおいても、最も大きな失敗作」(全集別巻「ドストエーフスキイ研究」P225)と断じる。そうかもしれないが、自分は英国のゴシック・ロマンスやこの国の大正昭和の探偵小説で似たような物語(男が美女に魅かれ、過去の経歴に驚き、現在の存在に翻弄される)をたくさん読んできたので、その親近感からそこまでの評価にはいたらない。幽霊屋敷ものの変形変奏、運命の女ファム・ファタルの犯罪小説のはるかな先駆とみればいいのじゃない。まあ後年の作を評価軸にすると、たいていの小説は未熟で不完全になるだろうから、あまり厳しくしなくてもいいのではないか、と。
 やはりタイトルの「主婦」が予断をもたらすわけで、強いマチズモや父権主義の眼からすると、内容とタイトルは不一致になる。ここは、黒岩涙香風に「妖(あやし)の美女」、江戸川乱歩風に「赤蜘蛛」とするのはどうか(たとえが古すぎるのは失敬)。


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<追記 2020/9/23>
亀山郁夫訳「カラマーゾフの兄弟」第5巻の解題に「主婦(女主人)」がでてくる。それによると、

「主人公の二人(たぶん老人と若い妻)がともに異端派の一つ、去勢派に加わっていたことが明らかになった(略)この悪魔的老人は(略)癲癇と去勢派の結びつきを提示した最初の作品として大いに注目すべきであり、『カラマーゾフの兄弟』にストレートに続くテーマを予告すると考えていい。むろん『女主人』で取り上げられた主題もまた『親殺し』だった」

とある。癲癇で去勢派というとラスコーリニコフとスメルジャコフ。