odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

フョードル・ドストエフスキー「虐げられし人々」(河出書房)-1

 同じ人物が複数の名前で呼ばれるので、ネットにある登場人物表を印刷して手元に置いておくとよい。

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 新進作家のヴァーニャ(米川正夫訳)は知り合いのナターシャを好きだったが、ナターシャは公爵の息子アレクセイ・ペトロヴィッチを強く愛していた。このアリョーシャは生活の苦労がないので、軽佻浮薄・無責任・放埓を絵にかいたような軟弱もの。ナターシャの手を取って愛を告げた後、数日家に帰らずにペレルブルクで遊びまわる(そして後悔する)というやつ。アリョーシャとは似合いじゃないからやめろといってもナターシャは聞き入れず、とうとう駆け落ちして安いアパートに住むようになるのである。なぜナターシャの愛に反対するかというと、父親のイフメーネフがあアリョーシャの父ワルコフスキー公爵と係争中。イフメーネフの契約不履行を理由に数万ルーブリを獲得した(のちに勘違いであることが分かっても、告訴を取り下げない)のである。それが理由でイフメーネフ家は零落していた。しかもワルコフスキー公爵はアリョーシャを伯爵家に嫁がせようと画策し、伯爵の娘カーチャをの中を進めようとしていた。ナターシャよりも若くて世間知らず(とはいっても知識を持って判断できる自立した娘)のカーチャに夢中になるが、しかしナターシャとの仲をなかなか切るわけにはいかない。公爵は着々を計画を進め、イフメーネフは憤怒にかられ、アリョーシャは落ち着かず、ナターシャは泣いてばかりなのである。
 というようないくつかの三角関係を軸に、イフメーネフ家とワルコフスキー公爵家の関係者が右往左往と陰謀、あたふたと激情を繰り返すのである。ヴァーニャはこれらの家族からすると利害関係のない第三者(ナターシャに振られているので)として、それぞれの家を訪問して、この起承転結を目撃することになる。
 この愛憎関係の物語にはなかなかなじめず(なにしろ小説中では事件らしい事件が起こらないのだ)、ことにアリョーシャとナターシャの未成熟と分別のなさには共感どころか呆れてしまった。タイトル「虐げられし人々(たいていの翻訳は「虐げられた人々」とあるがここでは米川正夫訳全集の表記に従う)は原題では「虐げられて辱められた人々」であって、本文ではイフメーネフ老が「虐げらたもの、辱められたものであってもかまわない。ともあれまたいっしょになったのだ」と元気を回復するシーンがあるので、イフメーネフ家の者たちがそうであるとしれる。とはいえ、彼らに降りかかった災難にはなかなか共感できなくて。金銭よりもメンツにこだわるところが大きいのではないか、など。これは21世紀と19世紀半ばのロシアの社会の違いが大きい。
 とはいえ、第3篇の最後でワルコフスキー公爵が自分の心情を激白する数十ページに至ったとき、目を見晴らされ、座りなおさざるをえない。ワルコフスキーはイフメーネフのみならず「わたし」をも、あらゆる人を虚仮にし馬鹿にし手玉にとり、決して反省しない悪党なのである。すなわち、世界は私のために作られているのであり、そこにおいて自分の望むことを実現することこそ人生のルールであり、エゴイズムが信条なのである。空虚な社会は居心地がよい。理想はいらない、金が大事なのであり、彼からするとアリョーシャ(息子)もカーチャもバカぞろいである(しかしなぜか「わたし」にナターシャを守れと命じる)。そのうえ、好色で、各地で子供を作り、顧みない。
 この心情は20世紀の探偵小説で、犯人が共有しているものとおなじ。幾多の殺人などの犯罪者が探偵の推理で露見したときに、多かれ少なかれワルコフスキー公爵と同じようなエゴイズムをしゃべって大見えを切ったのである(ヴァン・ダインフィルポッツの犯人がたいていこういう大人の男だった)。それを1861年のロシアにおいて発見したことろが慧眼。そのような潜在的犯罪者の心理分析はこの小説にかなうものはまずないのではないかと思わせる。のちのフョードル@カラマーゾフの兄弟ほどのすごみはないが、40代の公爵があと10年も年を積めば彼に匹敵するほどの悪党になるであろう。
 振り返れば、この小説の登場人物に共通しているのは強いエゴイズムであって、他人との協調や社会ルールの順守よりも自分の感情や信条に忠実であることが大事と考えるのである。個人の心情や思想、行動の自由を尊重し、大多数の決定に従わない/従えない少数者を守ることが自由主義であるが、ここではさらに強くそのような個を表現することが大事なのである、社会や共同体と衝突し、不利益を被っても自己を貫くことが重要とされる。そのように生きることは、損になり、社会的な評価を落とすことにもなりかねないが、それでもなお敬意を払うべきありかたなのである。なるほどこれは、あとさきになるが「地下生活者の手記(地下室の手記)」の「ぼく」がいいたいことであったとわかり、そのようなエゴイズムの尊重こそが「地下生活者」のありかたであるというわけだ。

    

2020/02/03 フョードル・ドストエフスキー「虐げられし人々」(河出書房)-2 1861年
2020/01/31 フョードル・ドストエフスキー「虐げられし人々」(河出書房)-3 1861年