odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

夢野久作「ドグラ・マグラ 上」(角川文庫)-1 なんらの社会との関係をもてない男は自己同一性の懐疑にとらわれる。自我に固執する「私小説」を裏返した自分探しの探偵小説。

 夢野久作が完成に10年を要し、1935年に自費出版で世に問うた畢生の大作。自分は好みではないので使わないが、「三大奇書」と呼ばれ、その中でもとくに難解といわれている。読破できないとか、理解できないとか言われている。そうか?という疑問をもったうえで、生涯三回目の読み直し。

 

 奇妙な時計の音で眠りから覚めた男がいる。部屋は殺風景な病室。散髪をずっとしていない長髪で、看護衣を着ている。隣からは若い女の声がする。不思議なことに男は自分の名前も過去の記憶も持たない。探ろうとしても何も出てこない(にもかかわらず日常会話ができるというのは、よくある事例)。男は「私」の認証で、手記のように意識の流れを記述する(発話や内話をリアルタイムで実況するスタイルは小説に可能な方法)。
 しばらくすると病弱そうな大男がくる。若林鏡太郎をなのる中年から高年の男はたんたんと説明する。それから明らかになるのは膨大な情報。箇条書きに要約してみよう。
・ここは九州大学の精神病院。「私」はそこに収容されている。
・医学部の法医学若林教授は精神科正木敬之(けいし)教授と論争していた。正木教授は何代か前の祖先の性格を入れ替える遺伝心理があり、それを応用できると主張していた。若林教授は慎重論。どちらが正しいかということになり、正木教授は「狂人の解放治療」を実行していた。若林教授はその立会人。「私」はそのただ一人の患者である。「千年前の先祖の記憶」を「私」に入れ替えたのだが、それが脳髄の著しい疲労となり、「自我忘失症(正木教授命名)」になり、過去をわすれてしまったのである。なので、「私」の名前を思い出すことが、治療の目的であり、研究のゴールである。思い出すために、「私」の外観やもちものなどを再現して手伝えるようにしている。
(「ドグラ・マグラ」発表時の日本の文壇は「私小説」が大流行りで、私は・私が・私の・私をと自我のことばかり問題にしていた。そうやって自我に固執することが独自性や創造性を委縮しているという批判を「自我忘失症」という言葉の選び方に見た。)
・その途中にいくつかの事件があったらしいことがわかる。新しい順に
1.1か月前の10月20日に正木教授は実験を中止し解放治療を閉鎖して死去した。(正木は九大を首席で卒業したのち放浪、1年前の大正14年10月に教授に就任した。それは指導教授である斎藤教授の推薦による。斎藤教授は大正14年10月19日に溺死による不審死を遂げた。以後、正木は「狂人の解放治療」を九大内で実施。その患者が「私」である)
2.ちょうど6か月前の大正15年4月26日に「私」は挙式予定だった。(隣の若い女の繰り言では、結婚式の前の晩に殺されたのだが、生き返ったのだという)。
3.若い女は1000年前の先祖の記憶を入れ替えられていて、自分の姉の夫(すなわち「私」)と同棲していた(と信じている)。
4.1か月前にも「私」は、若林教授の命令で理髪師に散髪されていた(ことを「私」は覚えていない)。
(という情報は断片的に出てくるので、こうやってまとめないと、日付の矛盾がわからなくなる。くわえると、「私」はしょっちゅうぼおっとして、時々意識を取り戻すことをくりかえしている。のちの「真相」に肉薄する情報が冒頭に集中して書かれているので、注意しておこう。)
・正木教授の部屋には「ドグラ・マグラ」と題された原稿紙の綴込(つづりこみ)がある。「一人の若い大学生の患者が、一気呵成に書上げ」た「正木先生と、かく申す私とをモデルにして、書いた一種の超常識的な科学物語」で、専門家は最低2,3回は読み「自分の脳髄が発狂しそうになっている事に気が付いた」といっている(全体の構成やトリックは正木教授が懇切丁寧に解説しているので、しっかり読むこと)。
 以上の説明ののちに、若林教授は、正木の残した業績や原稿、新聞記事などを「私」に読ませる。

 2020/06/04 夢野久作「ドグラ・マグラ 上」(角川文庫)-2 1935年
2020/06/02 夢野久作「ドグラ・マグラ 下」(角川文庫)-1 1935年
2020/06/01 夢野久作「ドグラ・マグラ 下」(角川文庫)-2 1935年

 

 突然この世界に投げ込まれる。なぜそこにいるのか、なぜこの時代にいるのか。そういうことが全く分からないし、だれも正しい説明をしてくれない。周囲にあるものは<この私>には関係のなさそうなものばかり(使ったり見たりした記憶がないのがそう感じる理由)。しかし、考え言葉を紡ぐことができるので、存在し続けなければならない。そのような存在の<強制状態>があることにおいて、「私」がだれであるかを確認する。そのような事態は実は読者のわれわれの物理現実にもあって、すなわち「誕生」というのだが、そこではもうすこし説明や教育があって、「私」がだれであるかを確認する必要がない。というのは、誕生からすでに社会の構成員になっていて、何らかの役割をもつ/持たされるからだ。しかし、「狂人(ママ)」とみなされ、社会から隔離されたところにいて、なんらの社会との関係をもたないものには役割は持たない/持たされない。なので、「私」が誰であるかを確認するのは困難を極める。
(似たような自己同一性の懐疑にとらわれたものに、ディスカバリー号に登場したHAL9000がいた。They(性自認を持たないから彼he/彼女sheにあてはまらないのでこうする)もまた社会から途絶していて、しかも十分な説明をもたされなかったのだった。惑星間航行宇宙船と九州大学医学部内の解放治療場のなんと似ていることか。とりわけ、すべてが人工的で自然がない、外にでることができないというところ。)
 そういう探求をする夢野の主人公たちはたいてい自閉的・内省的。自分から事態の打破に動こうとはしない。向こうからやってくる情報をこねくり回し、ああでもないこうでもない考えているだけ。リーダーシップをとることもしない。「ドグラ・マグラ」の「私」が典型で、「瓶詰の地獄」でも「氷の涯」でも。男は常にだらしないし、情けないのだ。
(むしろだらしない男に尽くす女のほうが行動的で魅力的だ。でも男の力が下駄をはかされている父権社会・権威主義社会では女はつぶされ、排除される。夢野の小説はそういう女性への共感がないので、今読むのは厳しい。)

 

夢野久作「街頭から見た新東京の裏面」(青空文庫)→ https://www.aozora.gr.jp/cards/000096/card940.html
夢野久作「東京人の堕落時代」(青空文庫)→ https://www.aozora.gr.jp/cards/000096/card939.html
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2020/06/04 夢野久作「ドグラ・マグラ 上」(角川文庫)-2 1935年
2020/06/02 夢野久作「ドグラ・マグラ 下」(角川文庫)-1 1935年
2020/06/01 夢野久作「ドグラ・マグラ 下」(角川文庫)-2 1935年