odd_hatchの読書ノート

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乃南アサ「6月19日の花嫁」(新潮文庫) 記憶喪失者はダンジョンから抜け出せるか

 ふいに世界に投げ入れらた女性がいる。見知らぬ部屋、見知らぬ人、なによりも恐ろしいのは鏡に映る顔が見知らぬ人であること。

わたしは誰──? 6月12日の交通事故で記憶を失った千尋。思い出したのは、一週間後の19日が自分の結婚式ということだけだ。相手は一体、誰なのか。“自分探し”を始めた千尋の前に、次々と明かされる予想外の事実。過去のジグソー・パズルは埋められるのか……。「結婚」に揺れる女性心理を繊細に描き、異色の結末まで一気に読ませる、直木賞作家のロマンティック・サスペンス。
https://booklive.jp/product/index/title_id/291643/vol_no/001

 全体は4部構成。第1部は、記憶を持っていないことへの戸惑い、不安、疲労。強調されるのは男の部屋に不意に女性が投げ込まれたので性被害を受けるのではないかという恐怖。男では多分感じないであろうと恐怖を小柄な女性は持つことになる。これは日本(に限らずほぼすべて)の社会であるから。あと、自己同一性の喪失があるとき、男は抑うつ状態や沈滞になるものだが、女性ではパニックとヒステリーとして現れる。これはそういうものなのかしら。第2部は「結婚式」の記憶から該当しそうな式場を調査すること。驚くべきなのはたしかに式場は予約されていたがそれは一年前のこと。探し当てた新郎からは罵倒される。そして前歴がホステスであることを知り、その店に行くとママが覚えていた。ここは最初の捜査が挫折するところ。そして自分が悪人であることを知る。第3部は母と弁護士を名乗る中年男女が現れて、別の一軒家に連れていかれること。その家はおよそ生活がある様子はなく、疲労して寝ているときに、中年男女の悪事の打ち合わせを盗み聞きしてしまう。そのうえ図書館で1年前の新聞を読んでいるとき、自分が怪物であることを知る。第4部は脱出と解放。たったひとりで中年男女(および手下ひとり)の拘束から逃れなければならない。どうすればよいのか。彼女が考えたたったひとつの冴えたやり方・・・。
 以上の構成はエンタメの手本です。主要登場人物は4人で、前半は男の部屋、後半は一軒家という限られた設定で380ページの長編を書き切った筆力はたいしたものでした。1991年初出で、1988年ころを舞台にしているので、21世紀のガジェットがまったくでてこない。平成生まれ以降の若い読者が読むのは厳しいかも。また、男の読者なので、ヒロインの感情暴発的な言動に共感できず(そういうのをみるとドギマギして硬直してしまうので)、彼女の恐怖を自分のものにするのが難しかった。
 記憶を喪失したものが自己回復のために調査を開始するが、同時に現在の犯罪に巻き込まれる。解説ではジャブリゾ「シンデレラの罠」をあげているが、アイリッシュ「黒いカーテン」都筑道夫「やぶにらみの時計」などを思いだし、その感想から別の記憶喪失テーマのエンタメにリンクできる。また19日の結婚式まであと5日しかないので、解決するまでの時間制限がかかっている(章立てが日付になっているのは緊迫感を高めるテクニック。ここでアイリッシュの名作長編を思いだすよね)。
 でも今回はどうしても夢野久作「ドグラ・マグラ」のことを考えてしまう。というのも、ヒロインは複数回の記憶喪失になっているので(開巻そうそうにあかされるので書いても大丈夫)、記憶はまだらで、脈絡がついていない。本書はとりあえず6月12日から18日までのことが書かれているが、さてそれは本当に事件経過に沿った記述であるのか。もしかしたら別の記憶回復の記述が紛れ込んでいるのかもしれない。ヒロインの一人称で書かれているので、気づきにくいが、そう読めそうな箇所はある。たとえばある恋人の部屋で心中を迫られた時に、返り討ちにしたときのことをフィアンセに話していない。そうしてみると、12日の記述は当然別の年のものであり、18日も17日から継続した記述であるかは判然としない。ということは、恐ろしいのはヒロインの記憶喪失に伴う周囲の人たちの陰謀にあるのではない。ヒロインが記憶の喪失-回復を繰り返しているのであり、喪失も回復の都度、毎回事故や事件、犯罪に巻き込まれるからであり、その繰り返しは今後も続くだろう。このダンジョンから抜け出す方途はどこにもなさそうなのだ。それが恐ろしい。ヒロインが結婚式に執着するのは、式というゴールに到達することが迷宮の脱出口であると信じているからだろう。しかし生理的な加齢は容赦なく進む。いっぽう精神は同じところにとどまる。「ドグラ・マグラ」の主人公は円環からぬけだすことができないが、このヒロインは可能だろうか。

 

 

 たまたまこの前に読んだ女性作家のミステリも「ドグラ・マグラ」の変奏だった。
加納朋子「いちばん初めにあった海」(角川文庫)