odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

夢野久作「ドグラ・マグラ 上」(角川文庫)-2

2020/06/05 夢野久作「ドグラ・マグラ 上」(角川文庫)-1 1935年

 

  ここからは若林教授が読ませた原稿綴り。長いぞ、奇態な文章が続くぞ。たぶん多くの読者を挫折させた難所。
 このパートは夢野の多彩な文体を楽しまなければならない。すなわち、「私」の標準語、若林の丁寧語、正木のバンカラテキヤの話法、福岡周辺の田舎言葉や方言(男女、老若、職業がさまざまなのを文体で描写)、新聞記事、放談の聞き取り、文語、擬古文、チャカポコの演芸話法などなど。よくもこれだけの文体を使い分けられたと感心し、適切な文体を見出し充分に書ききるためには、なるほど10年の歳月はかかったであろうと嘆息する。この文体の多くは敗戦後に失われたか、教育されないようになったので、多くの読者は読むのに困難を極めることとなった。そこが「難解(難読)」と言われるゆえんであろう。
 差別語があるが、当時の偏見を示すためにそのまま使用します。

 

キチガイ地獄外道祭文 ・・・ 解放治療の施設設立資金獲得のために、諸国を行脚する宣伝運動。当時は、こうやって放浪の運動家が辻々で説法したり芸能を見せたりして、寄付を得たり本を販売したりすることが盛んにあった。荒畑寒村も自伝で社会主義宣伝運動で半年以上村や町を回っていたといっている。荒畑寒村「寒村自伝 上」(岩波文庫)-1
さて内容は精神病者が人権をはく奪され、社会・国家・家族などから迫害されている実態の告発。明治政府による近代化は精神病者(および伝染病患者)を隔離する政策をとっていた。(精神病者の扱いの変化はフーコー「狂気の歴史」が詳しいのだろうが、未読。たぶん、ずっと。解説書はたくさんあるから、そちらで。)

          

新聞記事 ・・・ 1.正木教授の「狂人解放治療場」アイデア。人類はみな「狂人」だとのこと。2.「脳髄論」の概説。脳髄はものを考えるところにあらず。物を考えるのはどこかを考えた時に、解剖学から脳髄と決めつけたが、脳髄はたんなる蛋白質。なのでものを考えるところではない。細胞の一つ一つが考えるところであり、脳髄は都市の電話交換局に相当する(電話交換局は当時の最新機械。PCやネットのない時代では、もっとも相互通信的なシステムだった)。生物の歴史を紐解けば、原始細胞に行き当たる。単細胞である原始細胞はたったひとつで「その環境の変化に応じてアラユル意識だの、感情だの、判断力だのを現わし得る、無限の霊能を持っていた」。それが人間にいたるまでに複雑化巨大化するにつれて機能が分業化され、交換・反射の機能を持つ脳髄が専任するのだという認識の転倒が起きた。

f:id:odd_hatch:20200604102518p:plain  

八重洲町電話交換局(1902年頃) 交換手 - Wikiwand から

(物を考える場所を脳髄から細胞に移動させたのだが、ものを考える行為そのものは細胞のなかの「小人」がやっていることになって、棚上げされている。これはデカルトの認識論でも、脳の中に「小人」がいて認識をやっているとしていることと同じ。そういう無限な後退の説明なので、場所を移動させただけでは問題は解決されない。あと、「脳髄論」の説明はほとんどヘッケル。下記エントリーを参照。
エルンスト・ヘッケル「生命の不可思議 下」(岩波文庫)

<参考エントリー> 脳髄論によく似た大森壮蔵哲学

odd-hatch.hatenablog.jp


(正木博士は治療場に入院中の患者アンポンタン・ポカン氏の言説として上の考えをのべているが、ポカン氏は結婚式の前日に許嫁を絞殺していて、さらに16歳の時に母親を絞殺している。資料にでてくる夢中遊行の例はコリンズ「月長石」に似ている。)

胎児の夢 ・・・ 「人間の胎児は、母の胎内に居る十箇月の間に一つの夢を見ている」。ヘッケルのプラスマ説と「個体発生は系統発生を繰り返す」説のまとめに、俗流進化論と俗流心理学(特に夢)をまぶし、史的唯物論の揶揄をいれたもの。
(脳髄のような中枢はなくて、個々の細胞の意思の総和が全体の意思になるというのは、いかにも日本的。中枢が交換反射機能だけを持つあたりは、天皇制の暗喩かな。なのでこのパートは天皇制を肯定する文書に読める。極右団体や国家主義宗教などが西洋の物質主義は行き詰まりこれからは精神主義が必要などという文章を書くと、「胎児の夢」のようになる。しかも一般意思が自然とできるという考えは異論を排除する全体主義につながる。ファシズムもボルシェヴィズムも、個々の細胞の意思を重視しているから、「胎児の夢」は1920-30年代の全体主義と極めて強い親近性を持っている。)

空前絶後の遺言書(大正十五年十月十九日夜) ・・・ 「狂人解放治療場の天然色、浮出し、発声映画」による「狂人の解放治療」と「心理遺伝」の関係。日付の午後0時、午砲と同時に10人の患者から心理遺伝の大惨劇が爆発。若林教授が語らなかった前史が明らかになる。すなわち、明治40年11月20日に福岡の名家に生まれた呉一郎。この美少年は夢中遊行の病をもっていて、どうやら16歳の時に母を絞殺し、18歳のときモヨ子との結婚式の前日にモヨ子を絞殺した(モヨ子は仮死状態で若林教授が蘇生し、別の行倒れ遺体を身代わりにした)。呉一郎にそうさせたのは、呉家に伝わる家に祟る巻物を見たせい。厳重に秘匿していたが一郎に見せたものがいるらしい。巻物には秘伝があり、延宝七年(1680年)のことだが、九相図があり見た人を狂わせた。ときに刀傷沙汰にもなったので、仏像の腹にしまい施餓鬼をもって供養した。巻物は配にしたと縁起に書かれていたが、実は現存していた。それを事件の直前に盗み出して、呉一郎にみせたものがる。一郎が起こした事件は若林法医学教授と正木精神科医で解釈が異なる(若林は別の犯人がいる、正木は一郎の夢中遊行によると主張)。決着がつかないので、正木が狂気の一郎を預かり「解放治療場」に入れた。一郎は埋まっている女の死骸を求めて庭を掘り返す。そして正木の自殺した大正15年10月20日を迎える。
(大正15年1925年はトーキー以前。映画は無声で、楽隊の伴奏音楽にのって弁士が筋を語るものであった。なかには「ドイツの無字幕無声映画」もあった。映画が芸術の最前衛で、WW1後の新しい社会を描ける芸術と思われていた。文学も影響され、ダダイズムの詩人もシナリオ詩を書いていたくらい。というわけで空前絶後の遺言書が映画のシナリオ風に書かれるのは、当時の最新モードを借用したのである。
ベラ・バラージュ「視覚的人間」(岩波文庫)1925年
エイゼンシュタイン「映画の弁証法」(角川文庫)主に1920年代の文章が収録
 脱線すると、こと映画の芸術性については1920年代の無声映画が最高峰と思う。欧米のように豪華な映画館で大オーケストラの伴奏でみるとき、映画はまさにオペラを継ぐものであった。岡田暁生「オペラの運命」(中公新書)参照。ことにドイツ映画の素晴らしいこと!)

f:id:odd_hatch:20200604095221p:plain

1920年代の映画館(芸術新潮1988年4月号「世界が恋する1920年代」)から

 

 心理遺伝、脳髄論、胎児の夢などの夢野の奇怪な学問の多くは借用でできたもの。サマリーに書いたようにヘッケルの霊的進化論をベースにして俗化したものだ。ヘッケルの考えも奇怪であり、宇宙的な霊性までも「ある」としていた。その彼にしても「心理遺伝」を承認することはなかろう。夢野は創造神や超越神を想定していないので、それもヘッケルのお気に召さないだろう。
 分子生物学ができた後の現代生物学が棄却したセオリーや学問がまだ幅を利かしていた。なので、犯罪者の判別を行えるとする骨相学、犯罪因子が遺伝する人類遺伝学などがおおまじめに論じられていた。それが無批判で使われているので、ときに記述は差別的になることもある(それは小栗無視太郎も同じ。「完全犯罪」「黒死館殺人事件」「白蟻」などには骨相学や人類遺伝学などに依拠した差別的な記述が多数ある)。とりあえずは当時の制約にあるということにするが、21世紀の読者はこのところに注意深く批判的でいよう。
 さらに、「心理学」も、戦後の科学志向のものとは異なる。むしろ心理哲学とでもいうべきか。遺伝学や生物学も自然哲学というべきもの。いずれも西洋形而上学の影響を濃厚に受けて、科学との境界をあいまいにしたものだ。戦後の教育内容とは異なるので、十分に注意すること。(アニメの「新世紀エヴァンゲリオン」にでてくる「形而上生物学」なるものは、ヘッケルや正木教授が志向したものだ、と思えばよいだろう。もちろん一般的な学問にはなりえず、彼ら一代限りの職人的な「学問」だ。ああ、そういう学者に今西錦司がいたな。彼の著作も「ドグラ・マグラ」とのシンクロ率は高そうだ。)

f:id:odd_hatch:20200604094653p:plain

今西錦司「世界の歴史01 人類の誕生」(河出文庫)


 このパートの特徴はグロテスク趣味。犯罪現場や死体安置所、「解放治療場」などの描写は残虐で悪趣味なシーンを克明に描く。これはなかなかキツイ。

 

 正木は西洋の物質文明を強く批判し、代わりに日本の精神文明を築くことが重要だと力説する。「街頭から見た新東京の裏面」「東京人の堕落時代」では東京人の物質文明を批判するので、精神文明は夢野の強い主張であるのだろう。では精神文明の内実はどうかというと、心もとない。判然としない。どうも明治時代の規律や道徳などを実行することのように見える。ただそれは主に女性蔑視や差別を強化し、男に下駄をはかせるだけの父権主義なのだ。おそらく作家も、これに同意する保守派も正義や善についてきちんと考えていない。現状あるものの否定と伝統への回帰。これ以上のことが言えないから、新しい事態に対処できないし、新奇性を打ち出せもしない。外を遮断して、内を統制する。空虚な言葉を力づくで押し付ける。そこらへんが「精神文明」を言い出す連中のしぐさだ。夢野の諸作もこの線に沿ったもの。主張の核心は空虚そのもの。

      

 

2020/06/02 夢野久作「ドグラ・マグラ 下」(角川文庫)-1 1935年
2020/06/01 夢野久作「ドグラ・マグラ 下」(角川文庫)-2 1935年