odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

アガサ・クリスティ「愛国殺人」(ハヤカワ文庫) Patriotic War 祖国戦争最中には、薄っぺらなネトウヨ(Alt-Right)がたくさんいたのだろう。

 歯医者に行くのは憂鬱だ(と自分は思わないのだが。最近の歯科治療では痛みを感じることは少ないよ)と、ポワロは年二回の検診を受ける。愛想よく話をした歯科医師は、翌日自殺しているのが見つかった。当時(1941年初出)のイギリスではピストルの個人所有ができたらしい。前日、ポワロらといっしょに治療を受けたギリシャ人に、誤った薬を投与して死なせてしまったのを苦にしたのだろうということになったが、歯科医は自殺とは縁遠い人間。ジャップ警部も他殺であると疑い、ポワロは独自に捜査を開始した。
 とりあえず容疑がありそうなのは、そこにいた人。イギリスの最大の銀行の頭取、元女優、内務省の元役人。あとは歯科医の家族に、雇用人や秘書など。なるほど彼らは疑わしい行動をとってはいるものの、とくに動機が見当たらない。そのうち、元女優が失踪し、別名で借りていたアパートで死体で見つかった。銀行の頭取は最近の物騒な世相が反映しているのか、二度も狙撃されている。頭取の娘をねらって二人の青年が恋のさや当て。その一人が、歯科医の秘書の恋人だったりする。

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 というような情報が、ポワロと関係者のだらだらした会話の中でわかってくる。このころのポワロはとても孤独で、ヘイスティングスはいないし、ジャップ警部も行動をともにしない。高級な服や靴も、長年続いた不況のなかでは滑稽にうつり、なかなか打ち解けた話ができない。というのも、関係者は中産階級から下層階級の人たちで、たいていは不況で没落したのであから、いまだに19世紀風のマナーをまもるポワロは社会から浮いているのだ。そのための孤独と足を使った聞き込みはアメリカのハードボイルドの探偵に似ている。そういえば同時代のエラリー・クイーンも探偵の孤独を味わっていたなあ(「災厄の町」「九尾の猫」など)。
 この小説の紹介では「マザー・グース殺人」といわれているが、とくに犯人が仕掛けたわけでもなく探偵が見立てを大げさに言い立てるでもない。「僧正殺人事件」などを思い出してはだめ。原題「One, Two, Buckle My Shoe」はマザー・グースからとられたが、ある重要な情報がこのタイトルに似ているというだけのこと。なので、謎解きが始まるまではなんとも散漫な話を読まされているとおもったのだ。それが謎解きの開始とともに、背筋を伸ばすことになる。すなわち、三人の殺人を記述通りにみていると散漫このうえないが、別の見方をすると一つの意図がわかる。その見方をとれるかどうかが読者の読みにかかっていて、それを隠すのが作者の手腕。今回も作者の勝ち。みごとな技をみせてもらいました。
 もうひとつの原題「The Patriotic Murders」は犯行の動機に基づく。ここで出版年を想起するべきなのであって、ドーヴァー海峡をはさんで英独の戦いが進行中であった(しかも分が悪いころ)。そこにおいて、国家のためであると殺人を繰り返す。その行為自体は悪で不正義であるのだが、国家の大義を前にしたときにはやむを得ず、国家の利益のために自分の杭は正当化されるとする。「確信犯」であり、その主張自体はドスト氏「罪と罰」のラスコーリニコフに近い。同じ国のエンタメ小説では、フィルポッツ「医者よ自分を癒せ」の主人公に似ている。異なるのは、大義の由来が国家であること。なぜか国家と自分が同格であり、国家の大義と自分の考えが完全に一致していると思い込んでいる人。とてもではないが、上の二作に匹敵するような思想的な深みはない。いってみれば、ネトウヨAlt-Right)が事件を起こしたようなものだ。そういう薄っぺらい考えの持ち主が、戦時体制社会ではたくさんいたのだろうなあと、嘆息する(まるで21世紀10年代の日本のようで)。
(出版されたころはPatriotic War 祖国戦争をやってい。この作品ではPatriotの殺人を取り上げているところに、社会批判をみたい。でも「NかMか」のようなPatrioticな作品もあるので、断言できない。一筋縄ではいかない作者だ。)
 作者の書き方が以前よりも新しくなった。事件の関係者をたくさん集めるのは大変。屋敷に家族や親族がたくさん住んでいるとか、村の有名人に住民が入り浸っているとか、サークルが合宿をするとかが普通のやりかた。ここでは歯医者の待合室にいた人達という設定で、これは新しい。その分、尋問が面倒になる(なのでポワロがハードボイルドの探偵みたいに歩き回る)が、ここでは作者が作中人物のひとりに憑依するのではなく、偏在する神となって関係ない人物の行動をどんどんと書いていく(犯行現場を目撃しないのはご愛敬)。作者の1920年代の作品が三人称の文体であっても一人称の視点で書かれていたのと異なる。そのうえ、内面はほとんど書かれなくなり(内話が書かれるのはポワロくらいで、しかも数行と短い)、行動と会話だけの文章が続く。これもハードボイルド的な文体。
 クリスティが小説の方法と文体と主題を変えていくという指摘は読んだことはないが、こうしてみると大きな変遷を遂げているのね。1930年代後半からクリスティはどんどん充実していくという自分の考えが当たっていて、うれしい読書になった。