タイトルのメタファーは何かと昔からいろいろと妄想したものだが、実際は「旅行に出かける人」の意。実際、この一家は頻繁に旅行に出る。東京に住んでいるらしいが、冒頭から家族総出の大阪旅行であり、語り手の「自分」は嫂(あによめ)といっしょに和歌山に出かけ、最後には友人に監視を頼んで兄を長期の旅行に行かせる。旅行に出かけると、さまざまな秩序から解放されて、役割を演じなくてすむようになる。それが時に治療になり、ときに「門」の座禅のような修養にもなったりする。なので、読後にタイトルを見返すと、「魂の行き先を探る人」の意を持っていることもわかる。
東京で家を構える一族。華族貴族にはなれないにしても、生活にあくせくする必要のないくらいの資産と収入を持っているらしい(ここで小説のキャラたちは「国民」の上にいることがわかる)。息子二人と娘がいるが、兄を除くと行き遅れの独身。両親と兄夫婦が同居しているので、常に比べられていて、息苦しく、僻みとあてつけが起きている。父は兄弟姉妹間の確執には超然としていて、趣味に没頭(とはいえ移り気)している。
「カラマーゾフの兄弟」のようなぐちゃぐちゃした一族かと思ったが、あいにく父に保守性や封建性があるのではないので、父(や母)への憎悪は募らない。あくまで兄弟姉妹の疑心暗鬼と愛憎の関係に終始し、兄が図抜けた知性の持ち主であるので、弟(語り手)や妹はかなわない。
その兄が変調する。嫁の直が貞節であるのか信じられないというのだ。疑惑は弟に向かい、嫂と弟で一泊の旅行に出ろと命じる。おりしもの暴風雨は主要道路を寸断し、弟と嫂は宿に泊まらざるを得ない。なるほど、中年男が嫁との冷えた関係に悩み、年下の弟を疑うというのは西洋文学の主題であった。たとえば、「トリスタンとイゾルデ」伝説のマルケ王であり、メーテルランク「ペレアスとメリザンド」のゴロー。ないしは嫁アルマの不倫を疑うグスタフ・マーラー。近代小説では不倫が起きて兄と弟の確執にいたるのであるが(乱歩「吸血鬼」「緑衣の鬼」など)、本作では何も起こらない。兄の疑惑は空回りとなり、精神の運動はうちにこもり、実際にほぼ引きこもりの状態になる。弟は気散じしないように家を出て下宿し、妹も顔を合わさないようにしたが、兄の鬱屈は一向におさまらない。そこで父や弟は兄の友人を付き添いにして、長期の療養旅行を勧めた。友人からの長い手紙で家族にはわからない兄の内心がわかる(手紙や独白で不愛想で寡黙な男の内心がわかるという趣向は「彼岸過迄」「こころ」に共通する)。
たぶん多くの人は、最後の手紙に書かれる兄の希求(宗教的とも哲学的とも)の意味を考えるだろうけど、自分は別の点をみる。この一族には思想的な切断がある。明治憲法発布を境にした旧人と以後の新人。憲法発布以後にこの国は帝国主義国家になり資本主義を推進する。小説が新聞に連載された1913年には、資本主義は国全体を覆っている。資本主義と帝国主義は国民を孤立化アトム化する。地域や血縁のつながりを軽視し、共同作業をなくすことで、どこかに参加しているという意識を失わせる。他人に搾取される賃労働をするが、労働の成果からは疎外されている。それがこの一家に集約されている。語り手の弟はどこかの勤め人であるが、仕事の話はしない。興味と意味を感じないから。兄も大学の講義の準備にやる気をなくしている。孤立化アトム化しているので、生活や仕事に意味や意欲を持たないのだ。
そこにくわえて兄はかなりの高機能自閉症スペクトラムの持ち主。引きこもりの末の旅行で兄が示した兆候はこの症状から生じた鬱を思わせる。すなわち、強い焦燥感、不眠、疲れやすさ、午前不調で午後回復、低い自己評価、肉体嫌悪、将来不安など。彼が「神は自己だ」というとき、宗教に出てくる神は無関係で、自閉症スペクトラムが持ちやすい唯我論の表明なのだと思う。彼は神を求めているのではない。
「いっさいの重荷を卸して楽になりたいのです。兄さんはその重荷を預かって貰う神をもっていないのです。だから掃溜(はきだめ)か何かへ棄(す)ててしまいたいと云うのです。」
が欲しているところ。この気難しい兄が神を得たとしても、すぐに窮屈になって「僕は絶対だ」という内面の檻から抜け出したくなることだろう。
(なので、21世紀の目で見れば、兄に必要なことは慰めや哲学などではなく、向精神薬なのであった。投薬によって上記の身体症状をなくし、嫂と距離を置き、ストレスをなくすことが必要なのであった。もしかしたら嫂の直は、気付いてたのかもしれない。自分らの関係が兄のストレスであり、症状の悪化と招いているのであって、必要なことは距離を置き、ビジネスライクな関係になること。あいにく、この症状は人口に膾炙するものではなかったので、嫂もまた変人として弾劾されることになる。そうすると、手紙の書き手のように「兄さんがこの眠から永久覚めなかったらさぞ幸福だろうという気がどこかでします」と思われてしまうのだろうなあ。人権軽視のこの国では、こういう「幸福」が押し付けられそう。兄と嫂の両方に。)
(嫂の直は、漱石のほかの小説と同じく虚構にある人。兄に疑われ、妹から嫌われ、母からは無関心なところにあって動じることがない。兄の引きこもりと神経症があっても、兄を心配するでもない。通常、この境遇にいる女性ははたからの圧が強くてくじけそうになるものなのに。それでいて不意に「自分」の下宿を単身で訪れ、何の目的も言わずに大事な相談もなく帰る。こういう奔放で自立した女性は、明治にあって現実にはありえない。19世紀の英文学のキャラが日本の畳の上にいるという異化効果。)
漱石は小説に書いた問題を解決しないで終わらせる人。ここでもそう(他に「三四郎」「それから」「門」など)。謎めかしておいて読者に「それから」を考えてもらおうとしているのかもしれない。自分の感想では「行人」では不親切。兄本人のみならず、周辺の人々の対応や環境が放置されているので、ある種の行動性向の持ち主の生きにくさ(と周囲の人々のお節介と無関心)が放置されている感じがする。それは、漱石が点描した哲学や宗教では解決しないので。
(語り手の二郎や兄一郎も、他の夏目漱石の小説のキャラ同様、日本に生まれたばかりのモッブ(@アーレント)に他ならない。その方向から読み解くことができそう。この感想ではある種の行動性向に注目したので割愛した。)
途中に結婚式シーンが出てくる。都内の勤め人の結婚式は、神前の式場で、男はフロックを着て、女は着物を着る。結婚が経済活動に組み込まれ、共同体から疎外されてきたことを示す資料(20世紀のゼロ年代ころから結婚式場が経営されるようになった)。