odd_hatchの読書ノート

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村田沙耶香「コンビニ人間」(文春文庫) ドスト氏「地下室の手記」第2部の思想性のない女性版。

 感想が書きにくいなあ。悪口をいいだしたらとめどなくなりそうだけど、そうすると自分の社会や他人に対する偏見をあらわにすることになりそう。なので、ブッキッシュな話題で韜晦することにしよう。
 他人と道徳や規範を共有していなくて、他者危害をしてしまう人がいる。子供の時から問題をおこしていたので(けんかをとめるためにスコップで殴り掛かるとか、ヒステリーを起こした教師の下着を脱がせて泣かせてしまうとか)、思春期以降は他人とのコミュニケーションを最小限にしようとする。大学卒業後、就職する気はなく、居心地のよいコンビニのアルバイトを続ける。そして18年。たまたま新人で入ってきたダメ男に説教しているうち、その男はアパートにやってきて、風呂場にこもるようになる。周囲は結婚するものを思い込んで「祝福」するので、なりゆきで退職することになる。
 なるほどダメ男がやってきて「家庭」が破壊されていくのか。阿部知二「冬の宿」とか大江健三郎「日常生活の冒険」とかウォルポール「銀の仮面」とかの系譜にある奇妙な闖入者に翻弄される話。本書のダメ男は21世紀的。虚勢は張るけど強いものにはへいこらし、弱いものにはとことん上手にで、女性にはセクハラ・パワハラをしかけるといういやらしさ。昨今ではネトウヨやモンスタークレーマー、ストーカーらによく見られるタイプ。これほど嫌悪心を掻き立てる凡人は小説にはなかなかいない。悪人もどこかにいいところがあるとか、悪人のほうが正義を体現しているとか、そういう設定の多い中、悪で不正義だけでできている悪人はめったに出てこないものな。(これを解決するには権力・司法の介入が必要なのだろうね)。
 あるいは奇妙な仕事の系譜をみてもよいかも。井伏鱒二駅前旅館」「珍品堂主人」、大江健三郎「奇妙な仕事」「死者の驕り」のような。20世紀の小説と異なるのは、コンビニがあまりにありふれていて、だれもがその仕事を見ているのに、内側からは描かれなかったこと。アマゾンの倉庫もそうだけど、行動がマニュアル化されていて、時間を計測されながら成績をあげていく。そういうのはチャップリン「モダン・タイムズ」のように批判や揶揄の対象になる、退屈で非人間的な労働とされる。でも、語り手の女性にとってはマニュアル化されていることのほうが心地よい。もともとの行動性向が他人と協調できないところがあり(自分のなかでマニュアル化できない)、他人のマニュアルを受け入れ、そのまま実践することのほうが簡単で落ち着ける。ジョン・バース「旅路の果て」(白水ブックス)の主人公も、他者のマニュアル通りに行動しようとしたが、彼の場合はまわりは人間的過ぎて破綻。でもコンビニという場所では、個人的・人間的なところを排除する労働の空間で他者とのコミュニケーションは限定的なので、語り手は失敗しない。
 かつて社会や他人との関係がうまくいかないときは、引きこもりができたけど(ドスト氏「罪と罰」のラスコーリニコフが典型)、今では食事を定期的に持ってきてくれる下宿付きの女中などいない。なので、アパートに住み、個人的・人間的なコミュニケーションが不要なところで働いて、自活しないといけない。そこが社会の大きく変わったところ。たぶん19世紀のラスコーリニコフよりも忙しい。その分、空想にふけることが乏しくて、思想や観念をこねくり回すことができなくなったのだろうな。
 そういうところで、この小説はドスト氏「地下室の手記」第2部の思想性のない女性版なのだろう(あれ、書く前に考えていたことと逆の結末にいたってしまった)。