odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

エーリヒ・マティアス「なぜヒトラーを阻止できなかったか」(岩波現代選書) その答えを左翼のせいにすると、有権者や政治制度の問題が棚上げされるし、左翼でない者たちは責任がないことになる

 WW2敗戦後、まず哲学者が表題の反省をした。ヤスパースやマイネッケ(「ドイツの悲劇」中公文庫)、マックス・ピカート(「沈黙の世界みすず書房)を読んだ記憶がある。ドイツ精神を問題にした抽象的な議論のあとに、社会学政治学から反省の書が出た。これがそのひとつ。1960年初出で翻訳は1984年。
 かつては「なぜヒトラーを阻止できなかったか」の問いに、社会主義者共産主義者に責を負わせる議論があった。これは筋がよくない。ヒトラーらを選挙で勝たせた有権者を問題にしないといけない。左翼のせいにすると、有権者や政治制度の問題が棚上げされるし、左翼でない者たちは責任がないことになるから。少数者に責任を負わせるのは、差別やいじめを温存する精神とおなじなので、やってはいけない。と読む前に自戒のメモを残す。
 著者は1921年生まれで戦争中動員された経験をもつ、ドイツ社会民主党SPD)研究者。1984年に交通事故で死亡。

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第1部 なぜヒトラーを阻止できなかったか-1933年におけるドイツ社会民主党の崩壊
ドイツ社会民主党ヴァイマル共和国 ・・・ 1920年にヴァイマル共和国ができたとき、SPDは連合政府の一角を担う。でも賠償金の支払いと世界不況の対策を巡って保守の二党と分裂。そこに1930年の総選挙があって、ナチスが第二党に躍進。1933年1月31日にヒトラーが権力を掌握。その半年後にSPDは非合法化されて組織的な抵抗を止める。そこまでの経緯を以下明らかにする。本書の章立ては以下。

寛容の政策 / ブラウンとブリューニング / 抵抗への意思 / 1932年7月20日のプロイセン・クーデター /
政治的地歩の喪失 / ヒトラーの政権掌握前後における抵抗の意思の衰退 / 共産党との関係 / 党内からの援助の期待 / 授権法の拒否 / 半合法状態の下で / 労働組合の離反 / 5月17日の決定 / ベルリン派とプラハ派の相克 / 非合法活動の開始 / 一つの時代の終焉?

 1930年9月14日の総選挙でナチスが第二党になり、1933年5月にSPDが非合法化されるまで。その間に抵抗運動が労組などから起きたことがある。1932年7月10日のプロイセンクーデターで人々は路上に集まった。でもSPDは中止の命令を出す。1930年以降、ナチスは傘下組織を使って左翼党員、労組などを威嚇し襲撃しテロを行った。1933年1月30日の反ナチデモがあり、かこつけた国会放火事件で共産党を非合法化し大量逮捕。SPDの執行部はテロの対象外になっていたが下部組織が弾圧された。多数が逮捕され、幹部の亡命が相次ぐ。SPDの組織は崩壊し、労組はSPD党を見放し、翼賛組織になろうとした(即座に弾圧される)。33年5月で組織的な抵抗は終わり。以後は小グループや個人の抵抗があったくらい。戦後SPDは組織再建し、かつての党員が参集する。でも著者の見る限り、戦前組織の問題は解決しなかった。
 通常、「なぜヒトラーを阻止できなかったか」に対しては左翼の分裂や対立に原因があるとされる。なるほどSPDの優柔不断と組織温存戦略の誤り、共産党の戦術の誤りなどがあげられる。本書でも、組織の硬直性、分裂や対立(国内執行部と亡命執行部で確執があったとか)、ファシズムへの幻想(「野蛮でもそこまではやるまい」「野蛮だからいずれ自滅」など)が問題とされる。それはそうなんだけど、やはりナチスの野蛮とそれを支持した大衆に原因をみないと。本書は社民党にフォーカスしているから見えてこないけれど、ナチの暴力のエスカレートが大衆を萎縮させた。なのでナチが小さい時に、街頭でメディアでたたいておかないといけない。分裂や対立を当面無視して、ワンイシューで左翼右翼関係なく集まり、ファシストを罵倒し超圧力をかけて奴らを萎縮させないとなあ。(日本の反ヘイト運動を見聞きして、まさにそう思う。)
<参考エントリー>
ドロレス・イバルリ「奴らを通すな―スペイン市民戦争の背景」(同時代社)

 戦後再建した社民党の問題をみると、当時の「党員」たちの「党派観念(@笠井潔)」の強固さがよくわかる。

笠井潔「テロルの現象学」(ちくま学芸文庫)-3

 著者のように左翼の抵抗を主軸にする考えでは、ナチスへの抵抗は1933年で終わったことになる。そうすると、のちに行われた若者のならず者によるナチスへのカウンターが漏れてしまう。

エーデルワイス海賊団

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 別の見方。

「ドイツが不幸な道を歩むことになった主因のひとつは、第一次大戦後のハイパーインフレーション中産階級が打撃を受け、事実上一掃されて、民主主義の基礎が掘り崩された点にあるとみていた(ヤーギン/スタニスロー「市場対国家 上」(日経ビジネス文庫)P65」

 民主主義や反ファシズム運動の担い手の多くが中産階級なので、この層がなくなったことは有効な対抗運動を作れなかった理由になるだろう。


第2部 カウツキーとカウツキー主義-第1次大戦前のドイツ社会民主党におけるイデオロギーの機能

カウツキー主義の現象 / マルクス主義の限界 / 社会主義者鎮圧法下のドイツ社会民主党イデオロギーにおけるマルクス主義の浸透 / エルフルト綱領とドイツ社会民主党の戦術 / カウツキーの1893年の社会民主党教義問答書 / ベルンシュタインおよび修正主義者との論争の戦術的核心 / イデオロギーと心的傾向(メンタリテート) / 愛党(組織)精神の正当化 / 政治的受動性のイデオロギー的隠蔽 / 結論

 カール・カウツキー(Karl Johann Kautsky, 1854年10月16日 - 1938年10月17日)は、ドイツの政治思想家。若いころエンゲルスと交友を結び「純粋なマルクス主義」の解釈者とされ、長じてはドイツ社会民主党の成立にかかわり、エルンスト綱領を作成。SPDの理論的指導者的な役割になった。ダーウィン主義者として現れそれにマルクス主義を融合しようとした(これは珍しくて、通常マルクス主義者はラマルキズムに親和的)。エンゲルスといっしょにマルクス主義を作ったともされるが、長じてからはベルンシュタインらと修正社会主義を提案(これがSPDの方針になる)。すなわち、マルクス主義から設計主義と革命を除く。代わりに議会主義の合法的戦術をとり、資本主義が没落して労働者が決起するのを期待する待機主義だった。なのでレーニンからは日和見と激しく非難された。カウツキーはWW1のあとSPDから退いたが、運動方針はそのまま引き継がれた。なので、第2部は第1部の前史にあたる。
 橋本努「経済倫理 あなたは、なに主義?」(講談社選書メチエ)で、マルクス主義が設計主義と革命を放棄するとリベラリズムになるといっているが、カウツキーの主張とSPDはその典型。だが、SPDの組織は官僚的で労働組合の支持を必要とするマルクス主義的組織だったので、リベラリズムを展開できなかった。1930年代の労働者の街頭運動で的確な指導ができなかったのも、カウツキーの理論に端を発していそうだ。
 のちのユーロコミュニズムとの関係もなさそう。かつては共産主義の紹介文献で一章を割かれるくらいの人だったが、今は関心を持つ人はいないのではないか。