odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

安東仁兵衛「日本共産党私記」(文春文庫) 1950年代の共産党の主流派と反主流派の対立を経験した人の手記。

 1928年に生まれた著者が1948年に東大に入学するとともに、共産党細胞として活動を開始。その後、1961年に離党するまで反主流派であり続けた著者の立ち居地を明らかにする。年齢からすると、戦前に共産党ないし無産者活動を開始した人たち(野間宏とか埴谷雄高とか宮本顕治浅沼稲次郎あたり)の次の世代になる。著者は戦争動員も戦前の弾圧も経験していない。1998年没。

 戦後共産党の歴史はよく知らないのだが、まとめてみよう。まずふたつのチームが合体した。ひとつは宮本顕治に代表される非転向を貫いた獄中派。もうひとつは戦争中に中国やソ連共産党のもとで研鑽を積み、戦後帰国した野坂参三とか徳田球一とか伊藤律なんかの帰国組。世界情勢の把握力とか後ろ盾の強さなんかで帰国派が優勢でいた。当初は、占領軍を日本の民主化を推進する「同士」と規定していたのだが、朝鮮戦争の勃発と同時に労働運動と共産党に対する弾圧が始まる(これにうろたえた共産党ありさまを林達夫が「共産主義的人間」で揶揄していたなあ)。あわせて1950年にコミンテルン日本共産党を批判。所感派(コミンテルン支持)がヘゲモニーをとって、武装闘争を行う(ルィセンコ支持もこのころ)。2年間の活動で多くの党員が逮捕され、共産党の支持率がさがる。そのころスターリンが死亡(1953年)。ソ連スターリン批判が始まったという情報が漏れ出す。1955年に6全協で武装闘争路線を否定。共産党党員、とくに学生党員の無気力感がめだち、このころからしばらく学生運動が沈滞。同時に、共産党指導力も低下。一方、砂川闘争とか原水爆禁止運動などの共産党の指導下にない運動で成功が目立つようにもなる。このままじゃダメジャンと思った連中は3つの方向に運動を開始する。ひとつは、全学連の主流派で、共産主義者同盟を設立。もうひとつがトロツキーの研究を始めた連中で、革命的共産主義者同盟を設立(のちの中核派革マル派にいたる)。もうひとつが、著者の構造改革派。なるほどこのころからグラムシの紹介があったのね。(この時代の参考文書は、堀田義衛「奇妙な青春」、大西巨人「天路の奈落」フレシチョフ「スターリン批判」林達夫「共産主義的人間」、大岡昌平/埴谷雄高「二つの同時代史」あたり)。
 今からすると、1950年代の共産党の主流派と反主流派の対立を考察するのは面倒くさい話。それぞれの思想的背景、政治的配慮などどうでもいい。端的には、共産党の主流派にも反主流派にも組織の成果とパフォーマンスを外部視点で評価する方法と運用がなかったということにつきる。分派活動はご法度、党の決定に異議を申し立てるのはダメ、党派外のシンパと交流するのは修正主義、なんていう規定を行い、スパイ容疑のかかった党員に査問とリンチを実行すると言う時点で、組織としてダメダメ、ということになる。(この国の戦後において、スパイ容疑の査問や敵対党派への暴力を肯定する組織には共産主義関係が多かった、ということを明記しておこう。)
 著者の党批判の論点で面白かったのは、1950年代初頭の武装闘争以後、活動方針が組織温存、決起する時期は未来のずっとさきであるという考え方、大衆に対する低姿勢に変わった、結局それが砂川から60年安保での指導力不在、前衛の分裂をまねいたことになるという指摘。このような低姿勢、大衆追従、組織温存の運動論というのは、戦前の弾圧の記憶が心理的に働いているのではないか(とくに宮本顕治に顕著にめだつ)。もうあのような獄中体験をしたくないのだという、戦前の指導者が経験した暗欝な記憶が共産党の運動に反映しているのではないか、という指摘。この党は、ポルノに対する見解など、ある点ではきわめて保守的である。
 感銘を受けるのは、戦後直後には共産党が自由や未来を象徴する存在であったというできごと。著者もそうだが、入学直後に共産党細胞になったり、高校卒業後そのまま専従生活にはいったりと、苦難と貧困の生活に突入し、それを後悔しない多数の人びとがいたという事実。そういう知り合いが何人もいる(いた)。
 以上の評価は1980年代まで。

 2015年現在の共産党は当時とはずいぶん変わった。ブラック企業撲滅、アンチレイシズム市民運動などには積極的に参加。違憲戦争法案に反対質問をするなど、存在感を増して支持者を増やしている。自分も投票先はたいてい共産党候補者。