226事件終了後から敗戦まで。1936年から1945年までの10年間。
東アジアに日本主導のブロック経済圏をつくり、先進国の仲間入りをすること。これくらいが日本の国家目標であって、ブロック経済圏構想はおもに陸軍によって実施運営されることになった。軍事には強いが、それ以外には疎い軍隊が経済圏を運用しようとするとき、明治維新以来のナショナリズムを克服できず、民族差別・人種差別となって現れ、種々のヘイトクライムを引き起こした。象徴的なできごとが南京大虐殺。
(ブロック経済圏の運営を一元的にする試みはなく、満州・中国・ベトナム・インドネシア・タイ・フィリピンなどの占領地行政は、占領した軍隊に任された。統合する省庁ができたのは昭和18年以降。そのうえ、資源獲得をうたいながら、占領地から日本本国にはほとんど原料が送られなかった。)
森本忠夫「マクロ経営学から見た太平洋戦争」(PHP新書)
ここからは日本の<システム>@カレル・ヴァン・ウォルフレンが稼働していくのがよくわかる。政治や経済を少数のグループが掌握し、反対派を排除するに成功するも、集団のビジョンやミッションは共有されていない。グループ内のさらに小集団が派閥争いで主導権を握ろうとする。しかしどこかが実権を奪おうとすると、抗争しているほかの小集団が大同団結して阻止し、小集団間の抗争状態に戻そうとする。陸軍が大きな力を持っているとしても、海軍の人事に口出しできず、元老と宮内庁グループを巻き込むことはできない。それは大政翼賛会に合同した政治家でも同じで、有力な指導者を出すことはなく、派閥と利権争いを始める。それは政治や経済の運営を不合理にすることで、無駄・無理が生じてばかり(国家総動員体制ができて、配給制になったとき、有力大規模軍需産業には過大な資材が送られ、産業は一部を闇に流して不足資材を購入していたという)。
(全体主義国家は経済を統制したがるが、成功した事例はまずなく、ソ連、ナチス、大日本帝国など失敗ばかり。経済統制の不合理・無秩序はどの統制国家でも同じ。一方。アメリカやイギリスはWWII時期の戦時統制をうまく運用する。ただ長引くと、高い税率のための国民の不満が起こるので、長続きしない。)
その結果、会議ばかりになり(この時代の歴史記述は閣僚や軍隊その他の集団の会議ばかりになる)、会議ではなにもきまらない。問題は先送りされ、棚上げにされる。会議の参加者は席上では無言か建前ばかりをいい、会議のあとで愚痴をこぼし、根回しや説得のために暗躍する。決まらないし物事が進まないが、解決のためにできることは、組織の人事をいじるか、統括組織を新たに作るか。もともとの組織が派閥のバランスを意識したものだから、トップを変えても部内と部間の反目は解消せず、新しい組織は二重作業を発生させた。その結果起きたのは、下部組織の独断専行であり、上部決定機関の無責任状態。日華事変の開始からノモンハン事件、ミッドウェイ、インパール作戦など枚挙にいとまがない。
ビジョンがないこと、共有していないこと、小集団による派閥抗争で政治が運営されること、下部組織の独断専行を許すことは、物事の決定を機会主義にする。ビジョンや定見がないので、外の状況を見て利益になりそうな行為を選択するのだ。ナチスのポーランドやフランス進行が成功しているから英米に宣戦布告し、敗色濃厚になったときに中立条約を締結しているソ連に仲裁を依頼する。個別の軍事作戦ではその種のことが横行。自力で解決できず、他人の行動にまかせたり、後追いをしたり。
このような日本の<システム>@カレル・ヴァン・ウォルフレンのだめさが集約されているのが、昭和20年の敗戦を決定するまでのプロセス。決められない(責任をとれない)システムの運営者は決定を先送りしてばかり。システムの中にある小集団の争いがおき、抵抗勢力が会議のそとで物事を進める。結局、彼らの上にあるレベルの「聖断」を持ち込まないと決定できない。このプロセスには民衆は無関係。明治維新の権力変更プロセスと同じことが繰り返された。
(天皇はこの時代の政治に関与した。226事件の収拾、次期首相の選定、対英米開戦の決定、和平工作など。敗戦決定の「聖断」でだけ政治的決定を行ったわけではない。)
2021/02/19 林茂「日本の歴史25 太平洋戦争」(中公文庫)-2 に続く