odd_hatchの読書ノート

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ジョルジュ・シムノン「13の秘密」(創元推理文庫)-2「第1号水門」

 「第1号水門」は1932年作で、メグレ警部ものとしては最初期。「男の首」よりあと。

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 次の水曜には警察を退職することになっているメグレ。妻はすでに郊外の家に引っ越していて、メグレは行き場がなさそう。
 ある夜、第一号水門で事故が起きる。酒に酔った爺さんが川に落ち、そのとき背中を刺された男を救いあげた。男は海運会社をもっている有力者。爺さんは昔からの友人。その数日後、有力者の息子が背中を刺したのは俺だと書置きを残して自殺し、水門の助手が殺されてしまった。有力者は傲慢で横柄な人柄で、快く思われていない。なので、事件のあと疑心暗鬼にとらわれ、家族に冷たく当たる。ことに自殺した息子とはうまくいっていないし、娘夫婦ともダメだった。
 爺さんのほうも問題を抱えている。「白痴(ママ)」の娘には乳児がいるが、その父はだれかわからない。町のうわさでは、爺さんであるとも、有力者であるとも、殺された水門の助手であるともうわさされていた。その噂を聞くと爺さんが逆上し、あるいは気落ちして酒におぼれる。それを見ると、有力者は爺さんを小馬鹿にし、爺さんはますます追いつめられる。
 そこにメグレ警部が登場。ここでめんくらうのは、アメリカやイギリスの探偵小説のような捜査をいっさいしない。有力者の家に入り浸って、話を聞くだけ。マーロウやアーチャーのように、ほかの関係者にあうこともしない。何とも不思議な探偵。
 なので、小説は探偵視点では書かれず、有力者を描写することに注力する。そこで見えてくるのは、前世紀の後半に生まれた男が勤勉に労働した結果、プチブルになり、ブルジョア階級に入れるかと思ったがうまくいかない。本人に教養とマナーがなく、家族も貧乏人の暮らしぶりと根性が染みついて洗練されない。へつらう手下はいても、彼と対等になれる友人はいないし、ブルジョア階級からも誘いがない。もっとも問題なのは、彼が好色なことで、女中やその辺の女に手を出しては捨てていく。小型のフョードル・カラマーゾフがその暴君ぶりを発揮し、ドスト氏の小説には出てこない暴君の孤独を描いている。あいにく、この有力者に対抗できるキャラクターがいなかったので、有力者の自己顕示はからまわりし、泥沼に落ち込むことになる。
 メグレはそういう「転落」の過程をみる観察者。なので、探偵小説のような謎解きは起こらない。真相に気づいたものや関係者がその一端を語り、犯人を問い詰めていくことで、すこしずつ実際にあったことが明らかになっていく。それは、ロス・マクドナルドの小説のような苦いもの。犯人が明らかになっても気は晴れず、むしろ重苦しさが増す。罪を背負うべき「責任者」がそれから逃れようとじたばたするから。罪(事件だけではない)は罰せられず、残されたものが後処理しなければならないから。
 そういう重苦しい小説。メグレもパイプをふかしてばかりで、疲労を隠さない。なんとも疲弊した社会を描いたものだ。当時のフランスやヨーロッパの重苦しさの反映かしら(世界不況、ファシズムの勃興)。それに作中で言及されたメグレの退職と転居はどうなったのだろう。

(水門の助手は、おそらく運河に設けられた橋を管理する人。オランダ、ベルギー、北フランスは勾配の緩やかな平地で、河川がたくさんあったので、中世から運河を作っていた。WW2以前はトラックはほぼないので、運河を通る小型船が短・中距離の運送を担っていた。で水門の助手は、運河を行き来する小型の運送船が来た時に、跳ね橋をあげたり、旋回橋を回したり、通行人を整理したりする仕事をしていたのだ。仕事の都合上、水門の近くに住んでいて、船と人の出入りをよく知っていた。海運会社というのは運河専用の小型の運送船をたくさん所有していた会社。戦後、トラックが普及し、道路が整備されると、水運輸送は縮小し、会社の多くは倒産。21世紀は観光船に転業している。)