odd_hatchの読書ノート

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埴谷雄高「死霊 III」(講談社文芸文庫)第八章 《月光のなかで》-2 「或る霊性をもってこちらを眺めている「ひと」の顔」に全体の緊張から一気に解放されるカタルシスを覚えるが、男には顔は見えない。

2021/05/28 埴谷雄高「死霊 III」(講談社文芸文庫)第八章 《月光のなかで》-1 1986年の続き
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  そこまでの話をしたところで、外に出た安寿子は首と与志が歩いているのを見かけ、さらに父・津田康造もいるのを知る。
 長身の黒川の影をみて「高志さん?」と呼ぶ声がする。尾木恒子がいた。恒子は黒川と安寿子に姉・節子(ここでようやく名前が明かされる)の「心中」の真相を説明する。今は黒川の住む屋根裏部屋は高志が節子に貸したもの。そこでは社会運動の会合が度々あって、そのたびに節子は外にでていたが、あるとき「一角犀」を同居者と連れてきた。しばらくして二人の「心中」死体が屋根裏部屋で発見される。節子は高志の祖母に結婚・出産を拒否されていた。「一角犀」はスパイ査問事件の実行犯でもあった。なので「心中」と思われたが、最初に死体を発見した恒子は節子のロケットと高志のリーフレットを持ち出していた。高志は子供嫌いであったが、持ち出した「自分だけでおこなう革命」には、自覚的に子供を持たぬもののみが新しい未知の虚在を創造する。そこにおいて革命は人類の死滅となって成就するといっていた。読んだ恒子は姉・節子は「一角犀」とではなく、高志の思想と心中した(殉死した)のだと確信する。
 子供嫌いは高志一人の性癖ではなく、与志にも引き継がれている。生殖拒否の思想は与志にもあり(第4章)、与志が恒子にぶっきらぼうであったのは単に孤独癖や瞑想癖のためではなく、恒子の保母をしていて子供や赤ん坊が周囲にいるためであった。ただ、前日の夜に、与志は赤ん坊が寄って来るのを許し、抱きさえしている。「吾は吾なり」を不快に思う与志は他人との接触を拒否しているのであるが、ようやく他人と接触する。それは自分から言葉を発しない、精神を持っているとは通常認められない存在だった。「在る」ともないともいえないようなあいまいさを持っている境界線上の「ある」もの。与志の思想は他者の存在を拒否し続けられるか。
 創造的虚在は「なくてあるもの」というが、安寿子は幽霊や夢のような「なくてあるもの」が「奥の奥の何処かの隅に「出てこぬまま」に、数限りもなくあ」り、「それが、人類滅亡のとき……その私達のなかに「隠れて」いる無数の何かが、「われならざる虚在のわれ」についについになる」(P310)と力を込めていう。
 なるほど、虚在を宇宙的なあるいは超越的な「あるもの」と考察するはてに、実のところは「吾は吾なり」の内奥の奥に隠れ潜んでいたというのか。
 そのように気付かせた節子を「無限大の種族がもつ、変った考え、のなかへ、より変った魂、を、ほら、あの「われならざる虚在のわれ」の凄まじい実現の果て、投げこんでしまいました(P318)」と黒川は安寿子にいう。節子の「心中」が高志や与志を変えた。とはいえ、いまだに考え続け、「自身のみによる自分自身の第一歩しか踏み出さない」与志には、節子によって開示された安寿子の「芯の芯の芯の魂の或る原質を、あの可哀そうな三輪の前へ、たとい怖ろしい無理をしてでも、投げだすことをも貴方に覚悟しておいてもらわなければなりません」という。黒川の通告は預言者めいている。
(ここでも男の黒川が、男の与志を苦悩や煩悶から救出するために女の安寿子に覚悟や犠牲を強いている。女が男の意思の成就のために心身を供出することが必要なわけだ。女の犠牲よりも男の意思や思想が重要であるという黒川の態度はとても「不快」。)
 月夜の街に、黒川の屋根裏部屋に住む蝙蝠と、「神様」に拾われて助かった鷗が追い付き追い越されるように飛び回る(なんてファンタジックな光景)。闇のなかに「透過光の不思議な色の園」が浮かび上がり「凹みのつらなった蜂嵩状の圏のなかに、ぼんやりした二つの眼がもはや疑いもなくはっきりと浮き上ってきた」(P313)。同じような不思議な色の園は現れたが(第四章)、そのときはのっぺらぼうであった。それに眼がつき「或る霊性をもってこちらを眺めている「ひと」の顔」となる。のっぺらぼうは均質でどこをとっても変わらない。目が付き人の顔となるというのは、密度が変わり濃淡や速遅のある創造が起きているということ。虚体から存在が生まれるつつあること、あるいは内奥にあって隠れている「なくてあるもの」が「虚在のわれ」になろうとしていることになる。
 二つの目をもつ「或る霊性をもってこちらを眺めている「ひと」の顔」が現れるこのシーンは、これまでの「死霊」全体の緊張から一気に解放されるカタルシスを覚えるところだ。不快、不安という否定的な感情や思索がようやくここで安堵や平安に至る。ここに来るまでの階梯のなんと長いこと。
 でもこのカタルシスや解放、理解が訪れたのは安寿子、恒子、節子、「神様」という女性においてだけ(だから「死霊」において女は巫女であるのだ)。男はこの「或る霊性をもってこちらを眺めている「ひと」の顔」を見ることができない。闇や影のある部屋に閉じこもる男たちは空や宙を見上げない。となると、女は男を空や宙に視線を向けるように仕向けなければならない。安寿子の最初の仕事であるリーフレットをもってきた李泰洋が安寿子にいうように、「永劫の自己革命なしに、永劫に革命はない」。安寿子は与志の自己革命の速度を上げる触媒になるのであろうか。


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2021/05/25 埴谷雄高「死霊 III」(講談社文芸文庫)第九章《虚體》論―大宇宙の夢-1 1995年に続く