odd_hatchの読書ノート

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埴谷雄高「死霊 I」(講談社文芸文庫)「第二章 《死の理論》」-3 独我論だろうが悪魔学だろうが三輪の兄弟は自分のことばかりを考え、トリックスターの首はあらゆるものの最後まで見届けなければならない。

2021/07/05 埴谷雄高「死霊 I」(講談社文芸文庫)「第二章 《死の理論》」-2 1948年の続き 

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 首猛夫は自分の作った喩え話において、墓地をへて平安な場所にいけるのは津田夫人のみであるという。自分のことに思い煩うことがなく、他人の魂のことばかり背負い込んで重荷を負っているから。そういう単純さ、善良さが平安を約束する。独我論だろうが悪魔学だろうが、三輪の兄弟は自分のことばかりを考えている。それを客観視できる首猛夫は

「自分の魂だけをひねくり廻わしている僕達は、安息と平和の境外をうろついていなければならんのです(P258)」

と自覚している。しかし、宣戦布告された津田康造からは

「貴方が自身で気付いている以上に恐ろしい立場は――最後まであらゆるものの最後まで、貴方は見届けなければならないということです(P198)」

と恐ろしい反論を受ける。これは首猛夫の「陰謀」に対する警告であるが、同時に存在をめぐる彼らの議論の行く末を確認しなければならないということ。そこで、首は再び凍える寒さを体感しながら、「釈迦と大雄の対話(序 P10)」を聞かされる羽目になるだろう。とりあえず首猛夫はのちに「最後の審判」を眠りとも夢ともつかぬ状態で聞かされるのであるが。
 墓地に先んじた津田亮作じいさんは三輪の祖母のおさななじみ。わかいときにはやりあったらしい。しかし幾星霜が過ぎ、老年に至ると、ヨーロッパかぶれもおちて「美しき祖国」を称賛するようになる(20世紀の左翼によく見られた)。それでも安寧にいたらず、人生の達観は虚無のひとこと。

「(虚無は)あるといえば、あるし、ないといえばない――死も睡りも、そして生まれることも、みな同じ形式をもっとる(P269)」

 第一章で一語だけ書かれた「虚体」の観念はまだ登場人物に浸透していない。そこで普段使う言葉で考える。でも、虚無では「あちら側」や「ほとばしる力」を言い表してはいない。そこで津田老人を補足するのは、どこから来たともわからない青服と黒服のふたり。黒服は自分はめまいを起こし、倒れるまでの瞬間を事細かに分析し「ほとばしる力」を体験するといい、どうようにノックアウトされた拳闘家がカウント7までに「天国生き」とあちら側を垣間見たという体験を話す。この青服と黒服はずっとのちの第九章で安寿子の誕生会に現れるだろう(よくこんな伏線を作家は覚えていたものだ)。
 虚無、あちら側、ほとばしる力。「虚体」のイメージ群が現れてきた。
 さて、葬儀(神主が祝詞をあげるのに遺骨を地下納骨堂に収めるという珍妙なもの。加えて祝詞を無意味な言葉とまで断じる)のあと、与志は参列者を置いてどこかにいってしまう。安寿子は「与志さんは苦しいんです」でも「与志さんにあるいろんなことはわからない」と苦悩する。安寿子は与志を理解するために、彼女なりの旅を始める。津田夫人は悪魔、玩具などの首や津田らの話の比喩を使って考え、とにかく体を使うのよと自らを励ます(とても具体的で実効性のある提案だ)。


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 2021/07/01 埴谷雄高「死霊 I」(講談社文芸文庫)「第三章 屋根裏部屋」-1 1948年に続く