odd_hatchの読書ノート

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埴谷雄高「死霊 III」(講談社文芸文庫)第七章 《最後の審判》-2 「亡霊宇宙」で食われたものが食ったものを弾劾し、それを笑う最初の最初の存在が現れ、エスカレーションが続く。

2021/06/03 埴谷雄高「死霊 III」(講談社文芸文庫)第七章 《最後の審判》-1 1984年の続き 

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 食われたものが食ったものを弾劾する。それは自己確認の前の弾劾。でも、食われたものもそのまえに誰かを食っているので、弾劾の対象になる。弾劾は相殺されて、窮極的な弾劾ができない。そこで、食われる者の極限と食う果ての極限を選抜して、「裁け」を実行することになる。食う果ての極限は食物連鎖の最上位にいる人間ということになり、その中でもっとも生と死を考えたものを選ぶことにする。すなわち、イエスと釈迦。イエスを弾劾するのはガリラヤ湖の魚(大群衆に食事を与えるためにパンと魚を配布したという故事に登場)で、釈迦を弾劾するのはチーナカ豆。それぞれの教えや言葉を引用しての批判はとても面白いが、ここでは双方が救われるものとそうでないものを区別(差別)し、異端や党派や人間を殺すことを肯定するという過誤を犯したことだけを取り上げるまでにしておく。にもかかわらず、誤謬の救いや悟りを広め伝え、殺生や虐殺を止めることがなく、人間に生と死を深く考えさせなかったことを弾劾する。
 とても徹底した非難に思えるが、弾劾者であるガリラヤ湖の魚やチーナカ豆の指摘が生ぬるいというものがいる。母の胎内にいるまま生まれることなく母の死によって「餓死」した胎児。そうなることが予想されたにもかかわらず、子作りをした父と母を弾劾する。そこから、存在にとって「食と性」が原罪であることが導かれる。すでに存在しているもの/かつて存在したものは、このような死んだ胎児、さらには受精に至らぬ精子や卵の犠牲の上にあるというのだ。ことに、受精は重要で、そこで「吾が吾になる」という飛躍が起きるから。と同時に、吾が吾であることが他人を食し、生に至らぬ細胞の放出を伴うという原罪をもつから。「存在の苦悩、生の悲哀」と弾劾者は口にする。
 ここまでは他者を非難・弾劾することであるが、それを嘲笑するものが現れる。「自己が自分自身と自己格闘する戦士の兜」なるものを装着して、俺と俺の影とが互いを嘲笑し自分がより深く考えていることを説明する長い会話が行われる。(ここはへこたれた。議論のわけがわからないのもあるが、《俺》と《俺の影》が対立する異者・他者であるというところが理解できなくて。読者である俺にはこの長い長い会話がモノローグであって、自己の内部を他者にしようとしてもそれは内だよね、だって会話が成り立つのだもの、と思うから。会話が成り立たない、相手が何を言っているのかわからずこちらの意図を伝えられない相手とどうするかというのが存在の重要な問題じゃないと思うのだし。)この兜をかぶったものは自己発電装置による感電死で自殺したという。歴史上初の存在であると誇るのだが、「自同律の不快」にとらわれて、外との会話や刺激に反応しなくなって、閉じこもっている矢場や与志を暗示しているよう。第七章にいたってもほとんどしゃべらない与志が存在の考察をしきってしゃべり始めた後、この自殺をした存在のような決断をするのではないか、それを予告する挿話のような気がする。
 そういうわけで、「存在の苦悩、生の悲哀」をもたらした最初の最初の存在、単細胞生物を弾劾することにする。でも、単細胞は自分には弾劾されるいわれはないという。すなわち、最初の最初の単細胞は食と性の原罪をもたないから(光と水と水溶の化合物を体内変換するので「食」をしていないし、細胞分裂のみの自己増殖は生殖ではない)。なので、食と性の原罪をもたらしたのは、貪食細胞や生殖細胞を持つようになった別の存在なのだ、という。ここらは1980年代までの生物の誕生の学問研究の反映かも。このところの研究では、最初の細胞はひとつではなくて複数あり、合体や寄生することで現在の単細胞生物の元ができたという考えになっている。
(この「単細胞」は、第六章《愁いの王》で黒川が与志を評していうところの「男と女の成立以前」のはじめのはじめにいる「まったく孤独に考える単細胞」(P352)に対応する。「あらゆる細胞分裂は、「外界」から何かを盲目的にとりいれ、これまでの存在以外の何ものにもなり得ぬことによって、むしろ自分自身を侮辱しているのです。三輪は、そうした種類の「自己増殖」を拒否しているのです」(P353)ということで「単細胞」。)
 そうして、最初の単細胞ではない別の亡者たちは、亡者宇宙の時間と空間こそが根源であり、弾劾されるべきだといいだす。
 最初に食う-食われるの関係を持ち出して、食うものを弾劾することを始めたら、原初にたどり着けず、弾劾のために振り上げた手の下ろし場所はない。「存在の苦悩、生の悲哀」の原罪を他者にもとめると、あいまいになる。亡者たちは大合唱する。


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2021/05/31 埴谷雄高「死霊 III」(講談社文芸文庫)第七章 《最後の審判》-3 1984年に続く