odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

ニコライ・レスコーフ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」(青空文庫)

 カテリーナは、クルスク育ちの貧乏人、器量よしだったのでムツェンスクのイズマイロフ家に嫁いだ。不幸なのはカテリーナは20代前半なのに相手は50代のジノーヴィ。そのうえボリス爺さんという好色な舅がいる。ムツェンスクは小都市とはいえ、大きな商家にひとりでいると退屈でたまらない。もともと教育を受けてきたわけではないので、退屈をまぎらわす教養を持っていないのだ。
 クルスクからムツェンスクまでの行程は地図のよう。いまでこそ自動車や電車で半日の距離だが、当時は徒歩と馬車で数日かかりだっただろう。もともと根無し草だったので、クルスクに帰っても係累はいない。なので、夫がいない間に里帰りをすることはない。

クルスク クルスク - Wikipedia

ムツェンスク ムツェンスク - Wikipedia

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 美貌の持ち主だったのでボリスが言い寄り、商家の勤め人セルゲイが色目を使う。長い旅行から帰ってきたジノーヴィはカテリーナの破廉恥なうわさを聞いている。商家を継いだが、資金を提供した男の子供がいて実権を握れない。このような状況において、カテリーナは関係者をすべて殺してしまうのだ。最初はボリスを毒殺、詰め寄るセルゲイを絞め殺し、子供の口をふさぐ。あいにく最後の殺人が住民の目撃するところとなり、カテリーナとセルゲイはシベリア送り。このころにはセルゲイもカテリーナに愛想をつかし、別の女といい仲になる。もはや孤立無援のカテリーナ、冷たい雨に打たれる船の中、執拗にカテリーナをからかうセルゲイの女もろとも川に飛び込むのである。
 カテリーナの殺人には動機がない。たんに現在を邪魔するものをその場で亡き者とするだけ。イズマイロフ家を乗っ取ろうとか、セルゲイと愛の王国をつくろうとか、そういう計画や目的や理想はないのだ。そうなるのは、カテリーナが自分のことを価値や意味がないと思い込んでいるから。都市から田舎の町に一人やってきて、誰も知りあいはなく、友人を作れず、衣食住に困ることはなくても生活は空虚。それを変革する意思や意図はもたない。なので、カテリーナは探偵小説の犯人(ヴァン・ダインの二十則に基づく)になれない。
 自分に意味や価値がないと思い込むのは資本主義の競争から脱落したり参加できなかったりしていて、他人とのつながりを欠いているところに由来する。脱落者で余計者だという自己評価は、他人にも意味や価値を見出せない。他人は目的ではなく、自分の欲望を妨げる邪魔者か実現するための手段なのだ。だから殺すことができる。ラストシーンのようにカテリーナは自分の肉体も嫌悪しているので、自分で自分を殺すこともできる。


 1864年の小説をドミトリー・ショスタコーヴィチが1932年にオペラ化した。原作は深みのない扇情小説という趣きだが、文学にも見識のあるショスタコーヴィチゴーゴリ「鼻」、ドスト氏「賭博師」をオペラ化)が取り上げたのは、ロシアに生まれつつあったモッブ(@アーレント)の先駆をカテリーナに見たからと妄想する。退屈な主婦が若い男に入れあげて不倫にふけるというのはトルストイアンナ・カレーニナ」にもあるのだが、ロシア宮廷と資本家の上流階級で起こる事件はモッブのものではない。単なる猟奇的殺人者というわけにはいかないカテリーナに、本人が自覚していない近代性をみたのだろう。(で、そのようなロシアのモッブが1918年のロシア革命を起こしたのだと妄想する。)
肉体嫌悪、他人嫌悪などのモッブのありかたは、フランク・ヴェデキント「地霊・パンドラの箱」(岩波文庫)のルルにも共通している。ルルはジャック・ザ・リパーに殺されるところが違うけど。ショスタコーヴィチアルバン・ベルクがほぼ同時期にモッブを主人公にするオペラを書いた。殺人をテーマにしても、ビゼーカルメン」やプッチーニ「トスカ」はWW1以降には成り立たないということだと思う。)