odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

フョードル・ドストエフスキー「白夜」(角川文庫)

 今回は角川文庫の小沼文彦訳。昭和33年1958年初版なので、前回読んだ米川正夫訳よりも新しい。たとえば以下の言葉が注釈なしに使われる。「デート」「ランデブー」「ハート」「(好きな人の)タイプ」など。これらは当時の若者言葉。昭和30年代の日本の青春映画によく登場する言葉だ。その結果、米川訳より語り手「私」はずっと戦後の26歳の若者らしくなった(21世紀の最新訳はもっとこなれているだろうが)。

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 あらすじは前回のエントリーを参照。

odd-hatch.hatenablog.jp


 恋人のいない、人付き合いのよくない青年が10代の女の子の好意に舞い上がって、勝手に失恋してしまった。今回の訳文だと、米川訳のような沈鬱さはなくて、失恋のあとに世界が老いぼれてしまったように感じているこの青年も立ち直れそうな雰囲気がある。頑張れ、若造。
 気の付いたところをいくつか。
・訳文が新しくなったことと影響して、ペテルブルクも若々しくなった。建物が「私」に語り掛け、呼びかける。のちの「罪と罰」のような人を拒絶する都市ではない。堀田善衛がいうように(フョードル・ドストエフスキー「白夜」(河出書房)-2 )、都市の見方が異なるのだ。
・語り手「私」は空想家。どこかに勤めてはいるようだが、あいた時間には空想にふける。その際に参照するのはホフマン、スコット、プーシキンの小説に、マイアベーアの音楽に、ダントンの歴史上の人物。空想するといっても手掛かりなしではできない。読んだテキストや見た画像を参照して、それをなぞり、過剰にしたり省略したり組み合わせたり場所を変えたりというような編集作業をすることで空想の「翼」が広がる。その証左。19世紀半ばの青年がやっていることは、21世紀のオタクがアニメや漫画を使ってやっていることといっしょ。
・ナースチェンカは語り手「私」と会ってから4回心変わりをする。すなわち、不審→好意→友達→愛→振る(それに応じて「私」も愛から失意まで感情はジェットコースターのように揺れ動く)。好意が愛に変わるのは、「私」が書いた手紙に「あの人」が返事をくれなかったから。自分が大事にされていない、相手に無視されていることへの怒りがあてつけとしてすぐそばにいる人への「愛」になるのだね。珍しいことではなく、よくある話だ。だから、ナースチェンカの心変わりも一瞬でおこるのだ。
・小説は語り手「私」がペテルブルクの街にでて、ナースチェンカと会っているときのことが語られる。「私」は老いた女中マトリョーナのいる下宿部屋で、いろいろ悶々と考えにふけったり、マトリョーナとの頓珍漢な会話をしたりしているはずだが、それは書かれない。この語り手「私」は、「地下室の手記」の語り手や「罪と罰」のラスコーリニコフほどの孤独や孤立を感じていないので、社会や世間への不満もまだ少ないのだろう。だからラストシーンに希望を見いだせそう(ただそれはナースチェンカへの未練としてしか現れない)。実際、「白夜」の「私」が空想するのは、「新しい生活」「新しい夢」「魅惑的な生活」。観念や思想を空想するのではない。でも、「私」は自分に「怠け心」があると自覚しているので、それを克服しないでいると、「地下室の手記」の語り手(40歳)になりうる。希望や人との関係を持つことは、観念の「地下室」に閉じこもらないようにする大切なルーティンなのだ。
 前回読んでからそれほど時間は立っていないが、発見することはいろいろあった。名作、古典たるゆえん。

 

    

 

 読み直して、「白夜」一編で一冊にするのはもったいない。「主婦(女主人」「白夜」「地下室の手記」(「罪と罰」)「おとなしい女」「おかしな人間の夢」がまとまった、ドストエフスキーの孤独な夢想家を主人公にした小説集があればよい、と強く思う。