odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

フランク・ヴェデキント「地霊・パンドラの箱」(岩波文庫) 19世紀末ドイツ。中身空っぽなルるに男たちは自分の欲望を投影して勝手に自滅する。

 1890年代に書かれた。「パンドラの箱」はわいせつ文書として摘発され、改稿を余儀なくされる。この戯曲そのものよりもアルバン・ベルクのオペラで有名になったと思う。ちなみに、ベルクはこの戯曲とハウプトマン「そしてピッパは踊る」のいずれを取り上げるか逡巡していて、アドルノの提案でこちらにしたとのこと(アドルノ「アルバン・ベルク」法政大学出版局)

地霊
第1幕 ・・・ 売れない画家シュバルツはルルの肖像画の製作中。二人きりになって誘惑しようとするとルルは遊びのように逃げる。そこにルルの夫・衛生顧問官ゴル(ルルとSM関係にあるらしい。あるいはゴルは覗き趣味らしい)が入ってくるが、脳卒中(?)で死亡する。
第2幕 ・・・ 成功したシュバルツとルルは結婚している。しかし堅物のシュバルツとの生活は味気ない。ルルの父シゴルヒがきて金をせびる(ルルと父娘姦があることを示唆)。ルルの子供時代からの後見人シェーン博士登場。ルルを揶揄した後シュバルツに出生の秘密を暴露。絶望したシュバルツは自殺。
第3幕 ・・・ シェーン博士が新聞でキャンペーンを打ったので、息子アルヴァは舞台作家として、ルルは踊り子として成功している。舞台を見たアフリカ探険家のイギリス伯爵がルルに旅行を誘う。シェーン博士登場。ルルと婚約していながら3年間も延期していることが明らかに(たぶんシェーン博士は年のせいもあって不能)。強気になったルルはシェーン博士に三行半を書かせる。
第4幕 ・・・ シェーン博士と結婚したルルは家にいろいろな連中を招く。彼女にのぼせた伯爵令嬢(レズビアンを暗示?)、父シゴルヒとその悪党仲間、のぼせ上がった大学生。相変わらず不能(たぶん)のシェーン博士は嫉妬に気の狂う思い、ルルに短銃を突きつけるが、ルルに射殺される。ルルの居間のテーブルには、上記の連中が隠れてシェーン博士のせりふを聞くというコメディタッチのシーンになっている。
パンドラの箱
冒頭で、気まぐれな読者、金儲けばかりの出版社、金に弱い作者、謹厳実直なふりをする裁判官のコントが行われる。
第1幕 ・・・ シェーン博士殺害の罪で収監されたルルを救おうと第4幕の連中が集まっている。大学生が感化院を脱走して実現不可能の計画をぶちまけて追い出され、ルルが登場。伯爵令嬢の計画で入れ替わったのだった(女監獄でレズビアンにふけるつもり)。
第2幕 ・・・ フランスに逃亡した連中、ホテルかどこかのギャンブル場。逃亡生活で全員すっからかん(アルヴァは父の新聞社を売って金に変えた。行く先々でギャンブルで負け続け)。起死回生の妙手を得たいのである。ルルはイタリアの伯爵カスティピアーニにエジプトで娼婦になれと脅される(ルルは伯爵に愁眉を送っていたらしい)。さもないと密告。ルルに惚れて脱走を手伝った軽業師ロドリーゴもルルに口止め料を要求。にっちもさっちもいかなくなったルルはボーイと服を交換して脱走。一方、銀行家たちが投資したユングフラウ(若い娘:なんという皮肉な会社名)が暴落して全員が一文無しになる。
第3幕 ・・・ ロンドンのどこかの下宿の屋根裏部屋。ルルに付き添うのはアルヴァとシゴルヒのみ。いずれもルル経由で梅毒にかかっているらしい。ルルは街娼となり、四人の客を取る。最初の3人はまるで「地霊」で結婚した男を彷彿とさせるよう。ついには切り裂きジャックを客に連れ込み、ルルを慕う伯爵令嬢とともに、ルルは殺される(それ以前にアルヴァも殺されている)。


 なんとも強烈なストーリー。いまでも三文週刊誌や昼の奥様番組あたりで特集されてもおかしくない事件だ。それが1890年代に書かれたことにまず注目しよう。まだまだ自然主義とか芸術革命論などがあって、舞台や小説は解放とかユートピアを志向するような運動のあった時代だ。そんな状況で、社会の恥部や人間の暗黒面をストレートに描いている。ときにグロテスクに。
 とりあえずルルにフォーカスを当てると、彼女は名前を持たない。あるときはネリー、別人にはイブ、その他もろもろ。シェーン博士によると、神話の時代に生まれて、時々の時代で男を誘惑してきたとの由。一方、最初の夫シェーン博士は老齢もあってたぶん不能。というわけで、この関係をワーグナーパルジファル」のクンドリーとクリングゾルに重ねてみたがいかがかしらん。まあ素人の妄想ということで。重要なのはルルは空っぽで、男たち(レズビアンの伯爵令嬢を含む)は自分の勝手な像をルルに投影していた、と。中が空っぽだけに、ルルは男たちの欲望をそのまま反射していた。自分の欲望がそのまま姿になっていたので男をとりこにしたのでは、と。なので、ルルが男を惹きつけて破滅させるファム・ファタールとは自分は思えず、勝手に妄想して勝手に自滅したバカな男たち、というようにみたのだが。空っぽな分だけルルの死は可哀そう。(もしかしたらメーテルランク「ペレアスとメリザンド」のメリザンドに近いのかもしれない)
 才能のないのに芸術家気取りのシュバルツとアルヴァ、人を好き勝手にコントロールする資本家のようなシェーン博士とカスティピアーニ伯爵、ルルにしがみついては計算高く利用するシゴルビとロドリーゴ、こういう連中の分析は面白いそうだし、純情一途の大学生に伯爵令嬢の報われない愛(それゆえの悲劇的な死)とルルの性を対比してもよい。あるいはハウプトマンやイプセンに対する皮肉に、ジャック・ザ・リパーまで登場させるジャーナリスティックな感覚も興味深い。「地霊」第4幕のシェーン博士殺害の場面を鏡面にして、場が対応している(「地霊」の第1幕と「パンドラの箱」の第3幕という具合)という構成と全体として破滅に向かうドラマの展開を調べてみるのも面白そう。
 山口昌男「道化の宇宙」所収のエッセイによると、この「ルル」はコンメンディア・デラルテの中世以来の道化芝居に範をとった演劇であるとのこと。なるほど、ルル、シェーン博士、ゴル、アルヴァ、シゴリビという連中は古くからあるストック・キャラクターで、愛のすれ違いにドタバタ騒ぎあたりが道化芝居に範を取っているのだな。

  

 上記のようにベルクが「ルル」というタイトルでオペラ化している。あいにく第3幕が未完だったが、チェルハが補筆した。21世紀になってからはたいてい3幕版で上演、録音されているのではないかしら。自分はブーレーズ指揮パリ・オペラ座管弦楽団しか聞いていない。