odd_hatchの読書ノート

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ヤコブセン「サボテンの花ひらく」(プロジェクト杉田玄白)

 杉田玄白プロジェクトによって、ヤコブセンの「サボテンの花ひらく」が翻訳されているので読む。ここには、シェーンベルクの「グレの歌」の歌詞が収録されているので前から気になっていた。

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 訳者の解説によると、「サボテンの花ひらく」は1867年から1870年ころに書かれた、若書きの未完作品。軍事顧問官が育てているサボテンが夜に花を咲かす。それを見ようと、5人の若者と裁判官が集まった。花が咲くまで時間があるので、詩人である若者たちがそれぞれ自作を朗読する。彼らの目当ては軍事顧問官の娘ユーリエ。他の連中の鼻を明かそうという心づもりか。まあ、若者のひとりカールがずっとユーリエといちゃついているので、思惑はすかされただろうが。朗読された作品は以下の通り。タイトルと作者(とされる作中人物)
『秋』ポウル
『気分』イェスパ
アラベスク』ペア
『異邦人』イェスパ
『グアの歌』ポウル
『コーマクとステンゲアデ』マス(未完成)
 ここではシェーンベルクが曲をつけた「グアの歌」(ドイツ語訳では「グレの歌」)に注目しよう。もちろん、シェーンベルク畢生の大作を聞きながら読んだ。推薦盤はヤコブセン「ここに薔薇ありせば」(岩波文庫)を参照。
 主人公のワルデマルとトーヴェの悲恋は中世デンマークの実在の王様にあったことらしい。ただし史実に忠実であるわけではなく、モデルも複数いて特定できない。ワルデマル王は愛人トーヴェと何度も逢瀬を重ねたが、トーヴェは突然亡くなってしまった。悲嘆にくれるワルデマル王は従者や農民を従えて放浪する。その無意味さや疲労に耐え兼ねる道化師や農民。ついには、土地の亡霊となってしまう。
 解説にあったのだが、亡霊を追悼する「夏風の荒々しい狩り」のあと、語り手は現実(19世紀末)の無名氏になる。シェーンベルクの曲の構成を使うと、第1部はワルデマルとトーヴェのモノローグが交互に現れる。山鳩によるトーヴェの死の報告があって、ワルデマルの妄想と狂乱、それに集団が従うシーンが続く。中世の伝承を再話するのはここまで。彼らは土地の亡霊となり、グアの城は荒廃してしまうのだ。それを数百年後の現代人が訪れて、浄化を命じる。そういう枠の構造があるというのだ。シェーンベルクは現代人が伝承の場を訪れていることがわかるようにする。それが語るように歌うシュプレッヒシュティンメという手法。
シェーンベルクの「グレの歌」は数十年も愛聴してきたのに、この構成にはちっとも気づきませんでした。解説をろくに読まないせいでしょう。)
 ワルデマルとトーヴェの愛の語らいが奇妙なのは、二人が会う・一緒にいる時間がないこと。これから起こることへの期待とすでに終わったことへの哀惜だけが語られる。破局が来るのを知っているかのように、あらかじめ追憶と後悔をやっている。ほぼ同時代にワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」があって、そこでは二人はわずかな機会の逢瀬である「いま-ここ」に執着しているのに。
 それを反映しているのか、シェーンベルクの「グレの歌」には陶酔や崩壊のエクスタシーがない。どこか醒めていて懐古にふけるばかりの諦念の音楽。ドイツのロマン派音楽はできてから100年もたつと、すでに創造力や生命力がうせてしまったのか。元気をだしたり、意欲に燃えたり、未来に希望を見たりすることがない。そういう爛熟して朽ちる寸前の音楽。若いシェーンベルクはどうしてこの長編詩に曲をつけようと考えたのだろう。不思議だ。

 

 他の作品は簡単に。
 「秋」と「気分」は詩。
 「異邦人」は短編。スペインから来た娘と土地の男が結婚する。娘が死に、のちに妻が死ぬ。生き残った男は悲嘆にくれ、教会への埋葬を拒み、悲しいダンス音楽を奏でる。不審がる村人。「ベルガモのペスト」のような反キリスト教のモチーフ。神への呪詛は「グアの歌」と共通。
 「コーマクとステンゲアデ」は未完の短編。詩人コーマクはステンゲアデと結婚する予定であったが、四季の前日に行方不明になってしまった。しばらくして帰還したコーマクとステンゲアデはなぜと詰問するが、コーマクの返事は要領を得ない。コーマクをかばう兄にステンゲアデは惹かれていく。近世の田園地方で起きたワーグナータンホイザー」みたい。「タンホイザー」のような芸術と禁欲に関する思想はここにはないけど。
 共通するのは、すでに物事は終わっているという諦念、もう戻らないという悲嘆、不条理への怒り、運命への呪詛。戦いをするには彼らはすでに疲れていて、静かに老いていく。