odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

都筑道夫「誘拐作戦」(中公文庫、創元推理文庫)

 深夜の高速道路で、チンピラ三人組(小さん、大トラ、ブタ)と年長の一人(粟野)が事故にあった女性を見つける(こいつらの乗っている車がポンコツ・フォルックスワーゲンで、映画「殺人狂時代」に継承される)。そこに通りかかった男(桑山)が、その女性は財閥の財田(タカラダ)一家の娘であることを見出す。粟野は三人組に誘拐をたくらむことを持ちかける。過去にすねもつ身、大金を入手することが見込まれたので、三人と通りかかった男=外科医はその話に乗ることにする。粟野は女性によく似たあばずれ娘を呼び出し、財閥の娘の身代わりにして、交渉に取り掛かった。

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 1962年初出の作者の長編第4作に当たるこの作品、仕掛けの多さに驚くことになるだろう。作者はディクスン・カーのような「本格」が嫌いだとかで、歌舞伎のような仰々しさを嫌っているのだろう。登場人物に超絶的個性的なものは一人もいない。われわれの隣人のごとき普通の面持ち、生じる事件も現実に起こりうるもののように思われてすこしばかりファンタジックな装いを持っているというようなもの。なので鬼面人を驚かすような外連味たっぷりのトリックはないし、大向こうをうならせるアリバイ崩しもない(なんて陳腐な言い回し)。

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 財閥一家には誘拐の知らせが届き(第一報は電話でも郵便でもなく、いきなり姿を現す大胆不敵なもの)、黒澤明「天国と地獄」よろしく警察官が家に張り込んで、電話の録音を開始する。そこに私立探偵志望の赤西一郎太なる人物(上記ワーゲンの持ち主、チンピラたちが盗んだ)が財閥一家に入り込み、たくみに警察官と家族の信頼を得て、さまざまな推理を披露する。犯人は、事故で死んだ女の死体を隠すために動かねばならず、途中で一人が交通事故で死亡する。犯人と家族の接触は2回あるが、どちらも失敗。私立探偵志望の男の示唆で、娘の生きている証拠を出すことになり、当時には珍しいポラロイド写真が使われる。その写真から犯人のアジトを推理するというのはランドン「日時計」かな。
 このミステリは、「誘拐」は成功するのか、それとも失敗するのか、それはどこでか、で読むことになる。ただ、誘拐ものはなかなか難しくストレートに書いて面白いのは、探偵小説勃興期までで、黄金時代以降の誘拐ものはどこかひねらなければならない。ここでの趣向は、誘拐された家族はすでに死んでいるのだが、誘拐は成立するのか、ということ。そこのひねりの妙がこの作品の面白さ。時間をかけて再読することをお勧めする。そうすると、いかに大胆に「事件」の証拠をそこかしこに置いているか、いかに読者の思い込みを刷り込ませるように書いているかに気づくはず。そして終盤の4回くらいのドンデン返しにあっけを取られる快感を味わおう。
 もうひとつの趣向は、ふたつの手記を一体誰が書いたのかというのもある。ひとつは気付いたが、もうひとつは駄目だった。ここでの面白さは、最初から二人の関係者が交互に執筆していることを宣言していながら、「私」が登場人物の誰に該当するかがわからないようになっている。というのは、文中では「私」のことを三人称で記述しているから。まあ、自分の行動や会話を客観的に記録している風だから、混乱するわけ。でも、再読の時には、記述者の上位に読者の視点をもっていくことができたので、ニヤニヤとしながら読むことができた(手記をだれが何の目的で書いたかという趣向・仕掛けは前作「猫の舌に釘をうて」のものをさらに展開させた)。
 で、たいていの感想はここまでなのだけど、ついでにこの作品で問われているのは、最後に「真相」を「私」が告白していることで読者は納得するのだけど、実のところそれが本当に「真実」であるかは作品の中では保証されていないこと。別人による突っ込み(なぜできるかというと、記述者と本の著者が別人であるという仕掛けがあるから。これは辻真先のどれかにもあったね)があるので。では「本当」の「真実」はというと、この作品の中では決定できなくて、それこそ「都筑道夫」に聞くしかないけれど、もうできない。「藪の中」にはいってしまった。
 あとひとつ、「探偵」の役割について。赤西一郎太=茜一郎という探偵が登場して、それは事件の解決を宣告するのだけど、それは単純な真実にたいする純粋な好奇心とか、社会への貢献とかそういうものではない。別の思惑があり、それが事件の方向を変えている。そのとき、彼の「探偵」というのはこの「事件」(さて作中のどの事件のことでしょう)に責任があるのではないか、と思うことになる。さらに展開すると、もしかしたら、それって、ほかの探偵小説の探偵にもあてはまるのではないかなあ(とくに金に汚い私立探偵というのは)。
 あれ、これって、wikiでいう「後期クィーン的問題」のこと? もう一度、この本の初出年をみておこう。1962年だ。