odd_hatchの読書ノート

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都筑道夫「猫の舌に釘をうて」(講談社文庫、光文社文庫)-2

2021/08/23 都筑道夫「猫の舌に釘をうて」(講談社文庫)-1 1961年の続き

 

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 この小説は、都筑道夫の「猫の舌に釘をうて」の束見本(カバーなどのデザインのために作った本文白紙の本)に淡路瑛一が手書きで手記をかいたものとされる。手記の最後では、束見本が見つかることを期待しているから、きっとだれか(淡路の知り合いの雑誌編集者あたりか)が入手して出版したのだろう。では都筑道夫の小説の内容はなにか、ということになる。淡路はそれを知らないが、タイトルに触発されてこんなことを述懐している。

私の胸の中にも、執念ぶかく有紀子をしたう猫がいて、にゃあにゃあ、いつもうるさいが、舌に釘をうってみたところで、鳴きやむかどうかわからない(P127-128)

 淡路の中の猫は泣きやまない。なので、彼は自分で猫の舌に釘をうとうとする。有紀子は殺されるという最悪の状況が起きたので、結局淡路の胸の猫はずっと鳴き続けた。なので、都筑の作品と共鳴するところがあるのだ。淡路はこんなこともいっている。

貧しい作家の生活記録の上に、事件の進行を二重焼していって、そのあいだに恋の回想を綯(な)いまぜれば、わたくし小説でもあり、本格推理小説でもあり、恋愛小説でもあるユニークな作品が、できあがる(P76)

 ここでおおっ、と叫びをあげてしまうのは、まさにこのような趣向で書かれた小説をわれわれは知っているからだ。すなわち、1964年に書かれた「三重露出」。そのなかで滝口(同じ苗字の登場人物が「猫の舌に釘をうて」に登場)が書いた手記の部分。そこでも、手記のテーマは過去に殺された恋人の犯人捜し。淡路の手記は殺されるかもしれない有紀子の殺人を食い止めるために、犯人を捜すものだった。共通するのは男は女を愛していながら受け入れられない。にもかかわらず愛そうとするところ。なので、殺人の動機は「女にすてられた男のうらみ」(「三重露出」から)。そう考えると、都筑道夫の「猫の舌に釘を打て」は「三重露出」の翻訳者の手記部分といえる。
講談社大衆文庫版の解説では、「猫の舌に釘をうて」の殺人事件のプロットが「三重露出」の翻訳部分と一致していると指摘している。そこから「三重露出」にふさわしいのは、「猫の舌に釘をうて」の束見本に書いた淡路瑛一の手記ではないかと推測している。都筑道夫は「猫の舌に釘をうて/三重露出」のあとがき〈三一書房版〉でこんなことを書いている。

趣向だらけの書きかたをしたのは、パズラーとしての狙いに煙幕を張るためで、容疑者がふたりきり、という作品はあるが、容疑者がひとりきりでそれが犯人、という作品は思いあたらない。それをやりたかったのだが、大冒険なだけに強調しすぎたら、身も蓋もなくなってしまう。ほかの人物を犯人にしたらアンフェアーだ、という書きかたをして、趣向だらけで目をくらましたわけだが、わたしが臆病で、あまり煙幕を濃くしすぎたらしく、その狙いをまだ見ぬいてくれたひとがいない。

 「その狙い」が何を指すかはこの前後の文章を読んでもはっきりしない。「猫の舌に釘をうて」の趣向部分を拡大・再編集して「三重露出」になったというアイデアが「その狙い」であると考えるのは楽しい。)
 また、淡路はこんなことも書いている。

私は推理長篇を書くならば、ジョン・ディクスン・カアみたいに、*ここで彼女が、若い娘らしくもない大あくびをしたのは、ユーモラスな効果をねらって書いたものではないから、読者はあざむかれてはならない、とか、*いま作者が、遠くの団地のベランダで、風船を空に逃がして泣いている子どもを点出したのは、ひとなつかしい黄昏の、単なる風景描写のためではないから、読者はあざむかれてはならない、といった註を、要所要所にちりばめて、大いに唸らせたいほうなのだ。(P78)

 ここで「ジョン・ディクスン・カアみたい」というのは、「読者よ欺かれるなかれ」「九つの答」。それと同じ趣向が結実したのは、1973年の「七十五羽の烏」。本作に書いてから実に13年後。センセーが趣向や仕掛けにいかにこだわったか、それにふさわしいストーリーを作るまでにどれほど腐心したかを示すなあ。ただ、探偵小説の凝った手法は一般受けをしないので、後継者はなかなか現れない。