odd_hatchの読書ノート

エントリーは2800を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2022/10/06

小澤征爾/村上春樹「小澤征爾さんと、音楽について話をする」(新潮社)

 リヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」になぞらえれば、第5部「英雄の隠遁と完成」にあたる。初出の2011年の前に、食道がんになり長期療養をすることになり、ステージにあがることはめったになくなった。本人がいうには「ひまになった」。それまで忙しく世界中を飛び回っていたので、過去を語るインタビューを受けたり、文章を書いたりすることがなかった。なので「そういえば、俺これまでこういう話をきちんとしたことなかったねえ」。

 小澤の家人を介して知り合ったので、村上が本にすることを提案し、数回に分けてロングインタビューが行われた。村上はクラシック音楽界のインサイダーではないので、小澤は他人におもねることなく、しゃべりたいがしゃべる機会がなかったことをしゃべっている。
 というわけで上記の本では触れられなかった小澤の半生をつまんでみると、
ブザンソン指揮者コンクールで優勝した後、レナード・バーンスタインのアシスタントになる試験を受けて数年行動を共にする。ニューヨークフィルを訪れる人々と知り合いになり、幅広い交友関係を持つ(クラオタからすると綺羅星のような豪華なメンバーばかり)。そのなかで1960年代に唯一の黒人奏者に誘われてシカゴのジャズクラブに行くという話がよい。黒人しか行かない店でも、一緒に連れていかれれば別の人種・民族も受け入れられるというわけ。個人でジャズクラブにいくときは、奏者は黒人でも客は白人だけの店になる。公民権運動のさなかには、そういう差別的なすみわけがあった。

・ピアニストのアルトゥール・ルービンシュタインに気に入られて1960年代後半に数年いっしょにツアーを組んだ(岩城宏之がルービンシュタインに気に入られたのはこのあとかなあ)。
・ニューヨークの仕事をしているうちに、シカゴやトロント、サンフランシスコに招かれ、1973年にボストン響の音楽監督に招かれる。前任者(モントゥーやミュンシュ、スタインバーグなど)の影響でフランス風の音だったのを、小澤の意向でドイツ風の弾き方に変える。楽員からは反発があったらしい。小澤のレーコーディングはおもにフランス音楽だったが、レコード会社の意向によるものだった。本人はドイツ音楽をやりたかった(それはのちにサイトウ・キネン・オーケストラで実現)。
・1970年代にバーンスタインカラヤンらにオペラを習い、西洋でオペラを指揮する機会を増やす。2002年から2010年までウィーン歌劇場の音楽監督
1984年に夏だけ奏者を集めてツアーを組むサイトウ・キネン・オーケストラを設立。1987年に初の海外ツアー(評判がよくて1989年にメジャーレーベルで初録音)。曲目とテーマを決めて短期間にその都度奏者を集めるオーケストラのはしりなのだそう。このあと同趣旨のルツェルン祝祭管とかドイツ・カンマーフィルなどが創立(でも古楽ではフリーの奏者がそのつど集まって団体を組むのはまえからあったなあ。また、オペラの海外ツアーはそういうのが当たり前だった19世紀末から20世紀前半という時代もある)。

 この人は人とすぐに仲良しになれてしまう。ビッグネームがぽんぽんと出てくるのに圧倒されるが、彼らの推薦や紹介で次々と新しい場所を得ていく。そのチャンスを生かしていくのもすごいことだ(もちろんtakeにたいしてgiveもやっていたのだろう)。本人は社交は嫌いだったそうだが、古いドキュメンタリーではオケの資金集めパーティで悠々と会場を泳いでいき、如才なくあいさつ回りする姿もあったので、謙遜なのだろう。本書は「英雄の隠遁と完成」に至っての発言なので、前者が本音なのだろうが、そうみるとこの人は自分の本心を隠し続けていたのだなあ、それは苦しかったのだろうなあとも思う。

 音楽に関しては
・たん・たん・たんのリズムを刻むとき、たっ・たっ・たっとするか、たあ・たあ・たあとするか、たん・たあ・たああとするかはその曲の内的な理由できまる。全体の流れでも、曲のどこにあるかでも変わる。その見極めは大変だし、勉強するごとに変わる。
・長いフレーズ感をもてるようにしなさい(なるほどポップスではフレーズは5-10秒程度だが、クラシックは1分越えはあたりまえだ)。
・勉強中は自分の音しか考えないですむが、合奏するときには他の人の音を聞きなさい(なるほど、どう入るかとか、フレーズをどう合わせるかとか、和声のどこを強調するかとか、リズムをどうとるかとかの問題を、聞いて合わせたり意見を言って自分の解釈に合わせてもらったりとか)。
 まずは楽譜を読むことが大事、というわけで朝4時から5時間ほど勉強する生活を続ける。この勤勉さには敬服(時差ぼけで苦しかっただろうに)。

 でも、小澤征爾から出てきた音楽はというと、記憶に残らない。なぜかを考えて思いついたのは、とても勉強熱心であってしかし指揮の経験はつねに正答があるわけではなく、作品のどこを強調するかで解釈や意味付けは多様でありうる(そのうえオーケストラの性格や相性、ホールの状況など千変万化)。ベストは尽すが、常にどこか不満が生じる。でも演奏会や録音ではどれかに決めないといけない。その際に、この指揮者はまとまりや安定を重視する。複雑で多様で形式が混乱しているような作品(たとえばマーラー)でも、どこかに落ち着きどころを見出し、破綻が起こらないようにする。ここに着地するという意思がなくて、ふらふらしているところで安全なところに着地しておこうというような。そうして生まれた演奏はたがをはずさないが、指揮者の発見や創意(あるいは破綻して生まれた新しさ)が起こらない。この人のマーラーを聞いてつくづくと思った。師匠のバーンスタインカラヤンが持つ表現意欲みたいなのがみえない(そのような破綻の少ないフランス音楽では指揮者のやり方はうまくいく)。別の言い方をすると、この指揮者の仕事はつねに「ワーク・イン・プログレス(試行錯誤中)」。
(この「ワーク・イン・プログレス(試行錯誤中)」は巨匠の後の人たち、小澤征爾と同じ世代のアバドやメータ、マゼールレヴァインバレンボイムらにも聞き取ってしまう。巨匠のようにできず、ピリオドアプローチの隆盛に追い立てられながら、ついに成熟できなかった世代。これらの指揮者の演奏で興味深く聞けるのは60-70年代に録音された若いころのものなのだよなあ。小澤にしても、ボストン響の音楽監督になる前の若いフリーランスな時代の録音(1960年代後半)のほうがおもしろかった(「シェエラザード」やバルトークメシアンなど)。いっぽうで、ポストを望まずにいたブロムシュテットがどんどん変貌しながら成熟した音楽をし続けている不思議。)

 もうひとつは若い時は英語や他の言語をうまくしゃべれなくて、レニーやカラヤンのいっていること、あるいは同僚が言っていることをあまり理解できなかったといっているところ。それは10代の若い時から指揮の勉強をしていて、他の勉強をおろそかにした証。なるほど敗戦からしばらくは日本で勉強することはとても困難だったと思う。そのせいか、この人は西洋の文化や歴史の基礎教養に欠けていると思った。本書でも、作曲家やその時代の話はでてこない。哲学や思想の話もでてこない。常に楽譜だけを頼りに、その読み込みをする。それは潔いやりかたではあるが、文化の学び方としては不十分になるのではないか。この基礎教養の不足が作品の読み込みに影響しているのではないか(その点、もっと若い世代の音楽家になると、たとえば山田和樹樫本大進、このブログに登場した金聖響や伊東乾、もっと他の人も、言語の壁や基礎教養の不足というのはあまり感じることがなく、小澤征爾のような不満を感じることはめったにない。他にもチョン・ミュンフンヨーヨー・マなどの活動をみたりすると、東洋人が西洋の文化や芸術を理解することはどういうことかはまた考えないといけない)。 
 こんなことを考えたのだが、俺はどうみても「レコードマニア」の側にいるのだし、小澤征爾はこの対談を「レコードマニアのためにはやりたくない」というので、彼のいいたいことは俺には届いていないのかもしれない。