odd_hatchの読書ノート

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五味文彦「大系日本の歴史5 鎌倉と京」(小学館ライブラリー)-2 13世紀の温暖な気候が政治を安定させ、経済発展と海外貿易増大を生んだ

2023/06/20 五味文彦「大系日本の歴史5 鎌倉と京」(小学館ライブラリー)-1 気候変動による寒冷化によって平安末期は乱世になった 1988年の続き

 

 鎌倉幕府が政権を担当するようになる13世紀には温暖になったのだろう。生産が上がって治安は穏やかになる。そこで日宋貿易が盛んになる。日本には銅銭、書籍、香料、薬品その他が入ってくる。先方が欲しがる商品はないので砂金が輸出された(その量と質が良かったので評判になり、ついにはマルコ・ポーロ「東方見聞録」に書かれるほど)。あいにく日本商人の評判は悪かったもよう。博多には中国人街ができていた。というのも半島の国家が不安定だったので交易路に使わず、直接大陸に向かっていたから。大量の銅銭は貨幣経済を進めた(でも列島では、主に呪術的な蓄積になったみたいだが)。11世紀ころからの荘園経営で地方から京に年貢などを運ぶ道が作られ、列島をつなぐ。同時に商船による海上交通網もできた。というわけで貨幣経済、商品売買が発展して、商人と職人が生まれる(まだ店を構えるまでにはいかず、定期市が立つ段階)。
(政治の安定が経済発展と海外貿易増大を生むわけだ。とはいえ資本主義を生むには、幕府の法や官僚などの制度は全く追いついていない。金融制度もできていない。宋はこのあたりをきっちりと制度化したのだが、列島の政権はそこまで行っていない。)
(この時代は鎌倉仏教が新興したとして複数の僧侶の名前が出てくる。彼らのように著名な寺社で学究活動をした人々はその前後にもたくさんいたはずだが、この時代に集中的に新しい考えを披露するようになった。恐らく違いは鎌倉仏教の創始者が寺社を出て積極的に布教活動をし信者を組織化したこと。知的エリートが「民衆の中へ(ナロードニキ)」運動を行ったとみた。中世から近世にかけて、民衆の中で布教活動を行ったのはキリスト教くらいなので、知的エリートと民衆をつなぐ運動はこの国では極めてまれ。)
 世界的に気候が温暖なせいなのか、中国内陸モンゴルの騎馬民族が勢力を拡大する。13世紀半ばには宋を倒して大陸を制圧。日本を支配下に置こうと動き出し、使者を送り、拒絶されたあと1274年(文永の役)と1279年(弘安の役)で来襲する。いずれも幸運によって列島侵略は不成功に終わった。「国難」を名目にした地頭や守護らを戦争準備に動員できたことで、幕府の権力が大きくなり専制になる。なお、二回の侵略戦のあと列島と元は貿易や人的交流を深める。この時代は鎖国要求はなく、中国やアジア諸国に対して開かれていた。先便は平清盛がつけていたが、鎌倉幕府もその路線を継承していた。
(14世紀にカスピ海黒海周辺で発生したペストが中東とヨーロッパで大流行し、人口が激減した。交易が途絶え、古い帝国は滅び、新しい社会体制が生まれる。)
 それから数十年も経過すると、専制のタガは緩み始める。これも経済発展、交易拡大のために地方の富が増えてきたためなのだろう。職人や商人、修行僧などが各地を転々として情報を拡散していったのも影響しているだろう。典型的なのは「悪党」の増加。幕府や朝廷の体制に収まらない独自な活動をしているものを「悪党」と呼ぶらしい。荘園や地頭のように年貢をどこにも治めないで地方を支配しているところが「悪」だったのだ。幕府も朝廷も「悪党」を退治できないので、地方の地頭に分権したらそちらの勢力が大きくなっていった。こんなふうに中央集権-地方分権が繰り返されるのだ。そこにおいて立ったのが朝廷。後醍醐天皇が長らく支配権を持っていなかった朝廷に権力を取り戻そうと、討幕を計画する。あいにく自前の兵を持たず守護らの支持が少ないので悪党に声をかけたりもする。そこに鎌倉政権を厭うグループも呼応し、1331年元弘の乱で北条氏が亡びる。とはいえ鎌倉政権が消えたのではなく、東国を抑え続けた(このあと200年は続いた)。鎌倉幕府でできた東国政権と朝廷の西国政権の二重構造はこの後も続き、室町時代になる。
 ざっとこんな感じか。大きな変化が起きた興味深い時代だと思うが、この本の記述からはそれが見えてこない。