odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

高橋昌明「武士の日本史」(岩波新書)-1 古代・中世と近世では武士の在り方は全く異なる。

 「武士」とはどういう存在だったかは自明のように思えるが、そのような階級が無くなって150年もたつと、時代劇・小説や歌舞伎に描かれた武士が実在していたかのようにおもう。これが極右やネトウヨになると、日本人の精神を代表する存在に化けてしまう(江戸時代でも総人口の数パーセントだったにもかかわらず)。「武士」のイメージは実態に即していないのではないか、という問題意識で武士の研究者の啓蒙書を読む。2018年初出。

第一章 武士とはなんだろうか――発生史的に ・・・ 古代の武士像。もともとは弓と馬をよくする芸能者だった。律令制ができるころから朝廷による社会秩序ができて、貴族-侍(もとは高貴な人、目上の人のそばで見守り待機する「さぶらふ」から名称が発生)-百姓(網野のいうような多彩な職業を含む)-その他の境的格付けがあった。侍には武芸をたしなむ武士と文芸をたしなむ文士がいた。これは特定の家柄の出身者しかなれない。武芸に優れ戦がうまい武士は奈良期平安初期からいた。治安が乱れ自力救済(まあ敵討ちだ)が度を超すようになると、朝廷は治安と警備を行う組織が必要になり、武士にまかせた。武士は国家から委託されて治安維持や(内裏などの)清掃に当たったというから、体制内の存在で武力行使を制限付きで許されていた。武士が制度化された10世紀ころには新羅(半島)、エミシ(東北、北海道)の脅威に備えていたという。社会が安定すると武士の居場所はなくなるが、12世紀になると社会不安が広がり(気候変動が一因だろう)、武士は荘園管理を委託されていたのが、在地領主化する。
(終章であきらかにされるが、初期の武士は弓や馬の技能を期待されていたのみならず、宮廷の魔除けや憑き物落としの呪術を発揮することを求められていた。平安初期の文芸には朝廷に起こる怪異を防御・退治する武士が登場する。それが最初期の武士のありかただった。)

第二章 中世の武士と近世の武士 ・・・ 本書では中世は院政が成立した11世紀末を中世の始まりとする。荘園が激増し、武士が在地領主化する(朝廷から派遣する管理が統制できないので、地元の武士が代行するようになる。その結果、中央の貴族は貧困化し、地方武士の娘を娶り援助されないとやっていけなくなる。これが王朝文学の終焉の理由。)
2016/04/15 堀田善衛「定家明月記私抄」(ちくま学芸文庫) 1986年
2016/04/14 堀田善衛「定家明月記私抄 続編」(ちくま学芸文庫) 1988年
 12世紀末には中央の武士が政権を獲得するが、地方武士が叛乱を起こし源氏政権になる。東国武士は守護地頭制をとる。荘園と対抗する制度で、武家政権は守護地頭から軍事動員できる。承久の乱1221年以降、二重政権であったのが、幕府が朝廷の権力を接収するようになる。朝廷の反乱があったが、結局は武家政権(足利政権)になる。そのあとの南北朝は朝廷の争いではなく、荘園を寺領にする急進派と貴族の権益に配慮する保守派の武士の争いであって、その調停が難航したので長期化した。社会が安定すると武家の権力が強くなる。守護地頭の世襲化が進み、百姓の力が増大していった(武装と経済力のため。武士になろうとする百姓が現れる)。中央政権が弱体化し、地方の分権化が進むと戦国時代になる(応仁の乱あたりの15世紀から)。百年かけて強力な中央政権ができる。秀吉の施策である太閤検地はひとつの耕地の権利を整理し一地一作人となり、刀狩と相まって兵農分離となり、土地の保有権と年貢負担を持つようになる。ここで身分制が確立。江戸幕府になってからは、武士のサラリーマン化が進む。また転地国替等が行われて、武士と土地の関係が薄くなっていく。
武家政権の特長を幕府・征夷大将軍にみることが多いが、その名で呼ばれたことはまれ。水戸朱子学新井白石などが主張し、明治政府の教科書に載るようになってから膾炙するようになったとのこと。へえ。)

 

 あたりまえのことであるが、武士といっても古代・中世と近世では在り方が全く異なる。そのために、行動規範や遵守する家の考えもまるで変ってくる。江戸時代の官僚化した武士や町で剣道や漢書の指南をする浪人で武士を代表させるわけにはいかない。

 

 

2023/02/01 高橋昌明「武士の日本史」(岩波新書)-2 2018年に続く