odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

メーテルランク「ペレアスとメリザンド」(岩波文庫)-4 第4幕(承前)第5幕 大人に反抗しないように躾けられた少女と少年はいないものにさせられる。

2023/09/04 メーテルランク「ペレアスとメリザンド」(岩波文庫)-3 第3幕第4幕(続く) 父親不明で懐妊させられたメリザンドと城から出たいのに許されないペレアスは分裂にさいなまれ、大人にいじめられる 1893年の続き

 

 メリザンドは少女であるが肉体の存在感がなくて、目・手・髪のパーツばかりが強調される。何を考えているのか表現するのはとても苦手。でも悲しそうな顔をしていつも泣いてばかりいる。彼女の行動は誰も見ていて、助けを求めているサインをだしているのに、ゴローもアルケルもペレアスも助けようとしない。それは、つまり跡継ぎの子供を産むことだけを要求される「ヨメ」として城に来ているから。
 自分ではなにもできないのに、女や使用人に命令する権利を持っているゴローはミソジニーの塊みたいな男。彼がメリザンドを暴力的に拘束するから、メリザンドは逃げられず、一緒にいなければならないとあきらめている。彼女の近寄りたい/離れたいが突発的に現れては、対立するほうに行動するのはそういう分裂を強制されているため。
 引き続き、「まいにちフランス語 応用編 オペラで学ぶ「ペレアスとメリザンド」を読む」の解説をメモにします。

〈第4幕〉(承前)
(第3場)イニョルドが城のテラスで落としたボールを拾おうとしている。遠くに羊の群れが鳴きながら歩いていて、列をはみ出すものに羊飼いが土くれを投げてつけている。家畜小屋に帰るのではないので、羊はもう鳴かない。(第3幕第3場でゴローとペレアスが見たのと似た光景が繰り返される。)
同37回によると、ヒツジは象徴的な存在で人間の無邪気さや弱さを示している。ラブレー「パンタグリュエル物語」にでてくるパニュルジュの羊は一頭が海に飛び込むとそれに多数が続いた。その挿話から迎合主義や日和見主義の比喩でもある。 (第3幕第3場でみたと殺場に引き立てられる羊たちを思い出そう。)
(第4場)外苑の泉。ペレアスは緊張しながら待っている。メリザンドが遅れてやってくる。ゴローは寝たはずだが、聴かれないように二人は小声で語り合う。愛の告白。陶酔の瞬間、闇にまぎれたゴローがペレアスを刺し殺し、逃げるメリザンドを追いかける。
同38回によると、ペレアスはすべてを終わらせるつもりできているが、終わらせたくないとも思っている。彼は絶望と希望に引き裂かれている。(対立と分裂が起きているのはペレアスだけではない。ほぼすべてのキャラクターがそう。)
同39回によると、愛の告白は決定的瞬間、恋人たちにとって一瞬の永遠。ジャック・プレヴェールの「庭」から。「千年万年の年月も/あの永遠の一瞬を/語るには/短すぎる/きみはぼくにくちづけした/ぼくはきみにくちづけした」(詩集P76) (それまでペレアスは自分のことしか語らなかったのに、愛の告白をしあうとメリザンドのことをしゃべるようになる。まるで目が開いたかのように。)
同40回によると、愛の告白を聞いたペレアスは有頂天になりすぎで、シュールリアリズムみたいにのぼせあがっている。(その指摘の通りで、愛の告白を聞いたペレアスはメリザンドを拘束して支配しようとする。ゴローが近づいてくるとメリザンドが警告するのを無視して、抱きしめキスする。男女の恋愛心理の差だし、男性による女性支配の現れ。)
同41回によると、この間にゴローの施錠によって閉門され二人はどこにも行けなくなる。メリザンドはここで運命を受け入れることを決めた。(この運命は天や神が不条理に押し付けることではなく、ゴローの嫉妬と殺意に抵抗しないこと。男に反抗しないように躾けられたから、「運命を受け入れる」ように見えるのだ。)
同42回によると、ゴローは裏切られ傷つけ絶望して、暴力しか残されていなかった。(と言って暴力で弱いものを屈服させるのは許しがたい行為。ゴローの嫉妬やペレアスの自己愛に巻き込まれるメリザンドこそ哀れ。)

 

〈第5幕〉
※ ドビュッシーが採用しなかった第1場では女中たちが話している。ゴローとメリザンドが抱き合って倒れていて、ゴローは自殺を試みたようだが、死にそうなのは鳩も死なないような小さな傷を負っただけのメリザンドのほう。彼女は早産で出産し、子羊の毛でくるまないといけないような小さな女の子を産んだ。第三者による観察と説明。舞台劇では必要なシーンだが、老いた夫と若い妻と若い独身男性のメロドラマにしたオペラでは不要。
子どもを早産したメリザンドは危篤状態で寝ている。殺人で深く傷ついたゴローは犯したことを反省するが、メリザンドにペレアスと「禁じられた愛をしたことがあるか」と詰問する。いいえと答えるメリザンドにゴローは激怒する。さらに問い詰めようとするのをアルケルがたしなめる。気が付くとメリザンドは息を引き取っていて、アルケルは女の子を抱き、ゴロー以下部屋にいる者を退出させ、自分もでていく。
(メリザンドが息を引き取ったのをアルケルもゴローも医者も気づかない。ペレアスにささやき声で「愛している」といったのをペレアスが聞き取れなかったように、彼女はいないものとして扱われている。)
同43回によると、ゴローは自分の犯したことを「(Est-ce que ce n'est pas) à faire pleurer les pierres 石をも泣かせる(ほどではないか)」と表現する。どんなに冷たい人でも動ぜずにはいられないほど痛ましいことをいう、とのこと。
同44回によると、オペラではペレアスの殺人、ゴローの自殺未遂、早産はメリザンドに知らされていない。ことばのはしばしでほのめかされる。(無知の状態にいさせられるメリザンドは痛ましい。)
同45回によると、メリザンドは危篤で瀕死であるが、その前からもうろうとしていて心ここにあらずになっている。(「その前」とはいつからか。おそらく第1幕第1場のずっと以前。)
同46回によると、ゴローはメリザンドに「vérité(真実)」を答えるよう要求するが、それは(ペレアス殺人の罪で)地獄に落ちることを恐れているからではないか。(西洋中世の法では不倫した妻を殺害することは罪ではなかったから。例:ジェズアルド。不倫の証拠がないので、メリザンドに自白させようとした。)
同47回によると、メリザンドが悲劇で死ぬのは19世紀劇の常道であるが、21世紀からみるとミソジニー女性嫌悪)の現れではないか。(女性が死ぬことで世界が浄化されるというのは、19世紀ロマン主義の常道。オペラ、バレエに多数類例あり。)
同48回によると、第5幕の最終シーンで鳴る鐘は弔いの鐘。鐘の音はメリザンドが結婚指輪を落としたときに聞こえ、同時にゴローが落馬した。この悲劇は鐘の音に始まり、鐘の音とともに終わる。

 

 メリザンドは城に来てから悲しげな顔をしていつも泣いている。男視点ではその理由を掘り下げることはなく、彼女をメリジーヌ=水の精のような外部の存在にしてしまって生きている〈私たち〉の問題にしない。彼女の望まない妊娠と早産やペレアスの死の原因も不幸なこととして、よくあることにされてしまう。そして、メリザンドが非業の死を遂げたことでカタルシスを得てしまう(で、戯曲にちりばめられた象徴の読み解きに熱中する)。
 そうじゃないんだ。生きた人間としてメリザンドを見ることが必要。彼女が辱められ虐げられた人にされた理由はちゃんと直視しましょう。そうすると、ゴローだけが悪でエゴイストなわけではなく、介入しないアルケルも、自分のことばかり考えているペレアスも彼女への加害に加わっていることがわかる。彼女の不幸や苦痛は男性問題なのだ。

 

 

 2022年に新国立劇場が「ペレアスとメリザンド」をケイティ・ミッチェル演出で上演した。その際に、特別配信版 オペラ『ペレアスとメリザンド』オペラトークを行った。概要は以下。動画もネットにアップされている。
日程:2022年6月22日(水)
【出演】
大野和士(指揮・新国立劇場オペラ芸術監督)
村山則子(音楽評論、「メーテルランクとドビュッシー」(作品社)著者、また村山りおんとして作家・詩人)
ジョジアーヌ・ピノン(映画史研究、NHKラジオ「まいにちフランス語」応用編出演)
川竹英克(フランス文学、NHKラジオ「まいにちフランス語」応用編講師)

www.youtube.com


 村山則子「メーテルランクとドビュッシー」(作品社)や「まいにちフランス語」応用編では、この戯曲をフェミニズムの視点から読むことはほとんどなかったが、このトークショーでは女性二人は虐げられた女性視点で読むことを推奨していた(ケイティ・ミッチェル演出もメリザンドの物語として読み替えている。この演出では、現代社会で懐妊しているメリザンドがマリッジブルーやマタニティブルーになってメーテルランクの物語を妄想していると解釈している)。そういう読み方のほうが21世紀では「可能性の中心」をもっている。ここでもできるだけそうしてみた。

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 前回の読書の感想は以下のエントリー。大きな変更はなかった。

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