最近(2023年)、ドビュッシー唯一のオペラ「ペレアスとメリザンド」が大好きになってしまった。ドビュッシーの最高傑作の音楽は、毎日数回聴いても飽きない。ようやく音楽は耳になじんできたとはいえ、テキストの理解が危ういので、本書で勉強する。あと2022年にNHKが放送した「まいにちフランス語 応用編 オペラで学ぶ『ペレアスとメリザンド』を読む」全48回の録音も参考にする(こちらは別エントリーで)。
著者の方法は、メーテルランクの戯曲とドビュッシーの歌劇のリブレットを比較すること。自分は象徴主義文学運動はよくわからない。この戯曲/オペラの登場するさまざまな事物が象徴することや、象徴の配置によって全体として浮かび上がってくることがなにかは本書を読んでもやっぱりよくわからない。そういうぼんくらの読書ノート。
まずメーテルランクの戯曲の読み取り。メーテルランクはベルギーの人で、フランス語話者。フランスから見ると(「モンティ・パイソン」を見るとイギリスからも)侮蔑や差別の対象になっていたようだ。ドビュッシーも制作の過程でベルギー人へのヘイトを表明しているくらい。1890年代はドレフィス事件のような反ユダヤ主義があったし、帝国主義国家間の確執があって、相互にヘイトを持っていたのだが、その渦中のなかにメーテルランクとドビュッシーもいた(ということは本書には書かれていない)。同じベルギーの作家にはローデンバックもいた。憂愁や沈滞の感情は二人に共通しているので、世紀末の雰囲気はそういうものだったのだろう。
メーテルランクはノヴァーリスやフーケーを読んでいたので、影響を見るらしい。発表当初からフーケーの「オンディーヌ」との関係は指摘されていたという。
ドビュッシーの読み取りでは、彼の創作態度について。この人は象徴主義芸術運動に深く傾倒していたが、当時のフランスの音楽界の流行には批判的だった。ワグネリアンが多数いる中でワーグナーの方法には異を唱えていた(でも「パルジファル」の音楽には共感している)。それに19世紀後半のグノーやマスネの言葉をないがしろにするオペラにも賛成していない。それは彼自身の筆による文章であきらか。
歌劇「ペレアスとメリザンド」の制作が開始してから上演に難航したという事情はよく知られているし、初演以後の反応も出そろっている。ドキュメントに関しては新奇な指摘はなかった。でも現在の同じように1890年代を生きているように空気や感じをつかむのはできない。現在はメディアやネットで大量の情報が入ってくるから。それと同じ感覚をつかむには、大量のその時代のテキストを読まなくてはならない。これは大変な作業。ほとんどがくだらないもの、つまらないもののなのに、シャワーを浴びるように読まないといけいないからね。それをしないといけない研究者はとても大変。本書を読むと、情報の密度がもう少しあるといいと思ったが、もとは学位論文であるらしいのであまり期待してはいけないだろう。
さて「ペレアスとメリザンド」のテキストの読解であるが、俺がきちんと読まなかったところをちゃんと読んでいるので、さまざまなことを俺は見逃していたのを知りました。たいていの本では著者の主張を要約するのだが、ここではそういう気持ちにならない。ことにドビュッシーに関しては、アイデアの多くがジャンケレヴィッチと共通しているので、どうしてもそちらの印象にひっぱられてしまうこと。文章の密度や指摘の鋭さでジャンケレヴィッチを参照してしまうのだ。
そのうえに、著者の読み取りでは、俺の考える重要な論点が漏れてしまう。
・メリザンドは、男社会に翻弄され性の差別を受けていること。他人とのコミュニケーションに苦労している少女が出会いの直後に結婚させられる。これにメリザンドは拒否のパントマイムをするが、ゴローは気づかず、ゴローは暴力で彼女を支配しようとし(ゴローは不能なようなので、メリザンドの懐妊に不満と嫉妬を持っている)、アルケルもペレアスもメリザンドの不安には無関心。メリザンドに期待されているのが商品としての性であることの指摘がない(本書ではペレアスがメリザンドになかなか愛情を示さないことを不思議がっているが、そりゃ異母兄の子を宿している女性に手を出すのは憚られよう)。初老の夫、若い妻、若い独身男性で起こる三角関係をメロドラムというらしいが、子の三角関係にある権力の不均衡を無視してはメリザンドをとらえがたいのではないか。
(夫婦になり、最初に子供を産まされ、そのあと夫を愛することを要求される女性には、漱石「明暗」の延子がいる。延子はメリザンドによく似ている。)
夏目漱石「明暗」(青空文庫) 1916年
水村美苗「続 明暗」(新潮文庫) 1990年
第4幕の終わりでペレアスがゴローに襲撃されたあと、メリザンドはゴローに抱かれて失神しているところを発見される。そこにメリザンドの「愛」を見る仕方があるが、懐妊した事情といい、襲撃直前のゴローの折檻といい、メリザンドがゴローに暴力で支配されていることに注意。彼女はゴローから逃れられないことを知っているから、ゴローに寄り添うのだ。ゴローから逃れるには、自分が死ぬしかない。
・著者はメリザンドに水の特性をみる。その非物質性、夢のような淡い性質、運命に逆らえない非主体性などをみて、それがドラマの中で推移するように記述する。でもジャンケレヴィッチも指摘するように、メリザンドには矛盾と対立が同時に現れている。永遠と非在、出現と消滅、実性と虚性のような。それはペレアスでも、ゴローでもアルケルでも同じ。彼らは矛盾と対立を抱えていて、解決するすべがないのでどんどん退縮してしまうんだよね。本書からはそれが見えない。
・そういう退縮の原因を、俺はこの城と領土の不毛や領主たちの不能にみている。生産性のない土地と領主があり、脱出できないから不毛や不能が継続する。ゴローが狩りに出かけて、子どもを 産めない を産むには若すぎるメリザンドを連れ帰ったところから始まったこの物語は、失敗した聖杯探索であると思うのだ。そういう神話的な象徴が物語のそこかしこにあるのだが、著者は読み取らない。三角関係の男と女の機敏にフォーカスし続ける。
というわけで、メーテルランクとドビュッシーのテキストを本書くらいにまで読み込んだ先に見えてくることが重要だとおもう。240ページの本書は序論であって、その先があるはずなのだが、著者は筆をおいてしまった。残念。
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