odd_hatchの読書ノート

エントリーは3200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2024/11/5

バーソロミュー・ギル「ジェイムズ・ジョイス殺人事件」(角川文庫) ダブリンで起きた殺人事件を捜索する警部は行きがかり上「ユリシーズ」を読まねばならない。わけのわからなさに困惑する。

 作者はアイルランドアメリカ人。そういえば19世紀半ばの飢饉からアイルランド人の多くがアメリカに移住した。20世紀も半ばになると、移民が数世代の代替わりをすると、なかから知識人が生まれたのだろう。著者は修士卒業後に作家になった人。本書のマッガー警視シリーズはダブリンを舞台にしているということだ。自分のアイデンティティとの関係で関心を持つようになったのかしら。
  邦訳は本書と短編がひとつだけ。

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アイルランドの首都ダブリンは、作家ジエイムズ・ジョイスが生まれた街。ある暑い6月の日、この街でひとりの男が殺された。犠牲者は世界的に有名なジョイス研究家、ケヴィン・コイル。捜査が進むにつれ、事件とジョイスの代表作『ユリシーズ』との間の奇妙な類似点が明らかになり、ケヴィンを取り巻く3人の女たちの謎に満ちた関係が浮上する。『ユリシーズ』を開いたことすらなかった文学オンチのマッガー警視が一念発起、さまざまな文献をひもときながら事件の謎を追うのだが…。人間味溢れるマッガーが活躍する、ちょっと知的でかなり奇妙な文学ミステリー。
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784042672012

 ということで事件の捜査と「ユリシーズ」の読書が始まる。あまりに悠々とした書きぶりなので、事件の方はすっかり覚えていない。タイトルのジェイムズ・ジョイスとのかかわりは、被害者がこの作家の研究者であること、妻や不倫相手の関係がレオポルド・ブルームのそれに似ていること、事件の場所が「ユリシーズ」で言及される殺人事件の場所とほぼ同じであること。それくらい。警視とその周辺の人たちは必ずしも文学に明るいわけではないので、小説に困惑する。でも研究書注釈書を読むわけではないので、蘊蓄が語られるわけでもない。日本の作家なら長台詞を発するキャラを登場させようなところもありそうだが、そこまでしない。
 ここらへんがアメリカのリアリズムなのでしょう。ともあれ文学修士を収めたという作家の筆は細部の書き込みに情熱を持っていてもったいぶった文体だったので、進展が遅く冗長。人間的というマッガー警視に共感することもなかったので、すごい勢いでページをめくることになりました。ジョイスのような喚起的な文体ではないし、知的興味をくすぐるところもなかったので仕方がない。謎解きやトリックで勝負する探偵小説ではなく、事件の関係者と警視や部下たちの描写するのが主眼の小説でした。

 

 「18.ペネロペイア」の最終部分が引用される(やはりここは引用しないわけにはいかないとみなが考えるらしい)。本書の翻訳は1995年。なので、参考にする丸谷・氷川・高松訳は旧訳しかない(新訳は1997年)。
 まず原文。

and then I asked him with my eyes to ask again yes and then he asked me would I yes to say yes my mountain flower and first I put my arms around him yes and drew him down to me so he could feel my breasts all perfume yes and his heart was going like mad and yes I said yes I will Yes.

 丸谷・氷川・高松の新訳(集英社文庫

「すると彼はあたしにねえどうなのと聞いたyes山にさくぼくの花yesと言っておくれとそしてあたしはまず彼をだきしめyesそして彼を引きよせ彼があたしの乳ぶさにすっかりふれることができるように匂やかにyesそして彼の心ぞうはたか鳴っていてそしてyesとあたしは言ったyesいいことよYes。」

 本書で引用される丸谷・氷川・高松の旧訳

「そしてあたしはめでうながしたのもういちどおっしゃってそうよ(イエス)するとかれはあたしにそうよ(イエス)やまにさくぼくのはなイエスといっておくれとそしてあたしはまずかれをだきしめそうよ(イエス)そしてかれをひきよせかれがあたしのちぶさにすっかりふれることができるようににおやかにそうよ(イエス)そしてかれのしんぞうはたかなっていてそしてええ(イエス)とあたしはいったええいいことよイエス

 旧訳は、自分がドヤ顔で試みた私訳と似たような解釈になっていた。いや、自分の試みが恥ずかしい。
 もうこの種のことはやるまいという決心がついたところで、気の付いたところをいくつかメモしておこう。まずは、マッガー警視によるスティーブン・ディーダラス評。

「ディーダラスにとってその日は、霊感を得、しらふの状態から自己抑制、欲求不満を経て、酔いにまかせてダブリンを徘徊した一日で、酩酊状態にいたり、ばかげた振る舞いをし、暴力をふるい、最後には別の徘徊者から小銭を借りるはめになり、いつかはどこかもっとましな、まともなところに落ち着きたいという祈りや望みで終わった(P285)」

 集英社文庫版「ユリシーズ」の解説、解読をみると、ディーダラスは天才で芸術家の卵でいずれ大作をものすると見られているのだが、研究をするほどにジョイスや「ユリシーズ」に惚れ込んでいないもの(俺とか)からすると、スティーブンは凡庸であり、ブルームのような生活者になるのではないかと思うのだ。あまりかいかぶりたくないというか。まあ、22歳の若者がこういう日を送るのはよくあること。そのあと豹変するのか自堕落に落ち込むのかはこの一日だけをみてもわからない。

 いくつかジョイスのことも書かれていた。彼の手紙などには強い女性嫌悪や蔑視の言葉が書かれていた。つまりはセクシストでミソロジー。そういう傾向は小説の中にもあるので、そうかもとは思っていた。でも強い言葉が書かれていたいたことには驚いた。
 「フィネガンズ・ウェイク」を執筆していたころ、ジョイスはリーダーチーム(文学愛好家)を抱えていて、彼に勧められた本を読んで、梗概をつくり、テキストの代表的な数ページを入れて報告していた。それをジョイスは小説に取り込んでいたという。ジョイスの小説は大衆的に売れたことはないので、ずっと貧乏だったが、少数の熱烈なファンが彼の周囲に集まり、秘書になったり(若いころのサミュエル・ベケットがそうだったという)、仕事の手伝いをしていたのだね。
(戦後の江戸川乱歩が自宅で勉強会を催し、そこに集まった知識人や学生らが探偵小説の梗概をカードに書き込んでいった。それを参照した乱歩が「類別トリック集成」を書いたというのを思い出した。)