odd_hatchの読書ノート

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ジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ VI」(集英社文庫)(余韻) スティーブンとブルームとモリーはアイルランド独立機運の高まりをどう生きたかしら。

2023/10/10 ジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ VI」(集英社文庫)18 1904年当時の衛生状況を思い出すとダブリンは芳香漂う街。 1922年の続き

 こうして1904年6月16日が終わる。表面的には何も起こっていない凡庸な日。仕事をし、パブや喫茶店に行き、飯を食って帰る。たしかに、友人の葬式があり、知人の出産があり、妻の不倫があり、顔見知りの喧嘩沙汰があった。それはこの時代のダブリンではごくありふれたできごと。明日になれば即座に忘れ去られて、口の端にも上らないであろう。歴史の教科書にも記録されないであろう。


 それでもスティーブンとモリーは幾分かの変容が起こりそうだ。住む場所・仕事・金を失ったスティーブンは起きたら動かなければならない。友達に頭を下げることも必要になるだろう。とりあえずはモリーに教え教えられる日を楽しみにするかもしれない。その後、文学者としてひとり立ちできるか。それはわからない。この先十年の雌伏の後に勇躍するかもしれないし、生活に追われて文学の志を失うかもしれないし、誰の関心もひけないのかもしれない。モリーはボイランとの関係を清算するかもしれない、ブルームのことを憎からず思うようになるかもしれない。でも性的欲求の深さ・しつこさは、貞節の誓いを破るような強さをもっているのかもしれない。なにしろ、性病の蔓延は社会道徳を変えた。18世紀の性的放縦はいけないことにされ、若い男女の付き合いは制限された。結婚しても禁欲や節制は重要な徳目だった(とりわけプロテスタントで。ユダヤ教はどうなのだろう?)。そこにおいて、性の放縦や不倫を行うのはとても反社会的な行為だったのだ。
(19世紀小説でも禁欲を破る女性の性的放縦は批判され弾劾されるものだった。トルストイアンナ・カレーニナモーパッサン女の一生」ロレンス「チャタレー夫人の恋人」。フローベルなどは未読なので無視。そうすると、1922年の「ユリシーズ」もまたとても反社会的なものであるだろう。小説内でレオポルドとモリーのブルーム夫妻は罰せられないのだし)。
 そのうえ、夫人・女性の権利はとても制限されていた。教育の機会は奪われ、進学できるのはごく少数のブルジョアや貴族の家の人だけ。政治家になることができないどころか、投票権もなかった。芸術家のような表現でもガラスの天井は分厚く、破るのは容易ではない(19世紀後半から20世紀前半にかけて不遇をかこった女性作曲家がたくさんいる)。そうすると、モリーの長い長い独白、「意識の流れ」は物を考えていないと思われる女性が複雑な思考をしていて、主張したいなにごとかを持っていることを知らせるとても重要な文章であると知れる。女性にもまた性的欲望があり、他人を支配したい気分があるのだ。とくに先進的な女性だけでなく、市井のありふれた夫人であっても。でもこの語り、おしゃべり、独白は誰にも聞かれない。隣にいるレオポルドは熟睡中であるし、声になっているわけではないので消えてしまっている。ただ、それをジョイス一人が聞きテキストに起こしたので、100年後になっても聞くことができる。
 さらに俺が思うのは、アイルランドとイギリスの関係。どうやら1904年はアイルランドナショナリズム運動は低調期だったらしい。とはいえイギリスから派遣される政治官に従順であったわけでもない。このあと紆余曲折があってWW1のあとにアイルランドは独立する。とはいえ宗教間対立が起きて全島が独立したわけではなく、南北に分断され、以後半世紀以上の内乱が起きたのだった。とりあえずの平穏は両国がEUに加盟することで達成できた。北アイルランドの国境線沿いにあった柵や検問所が撤去され、行き来が自由になる。しかし2020年にイギリスがEUから離脱し、コロナ禍でまた暗雲が立ち込める。北大西洋の海運のハブ港はウェールズにあったが、イギリスを通すと関税がかかるので、ハブ港がアイルランドに移る。北アイルランドの国境線が再び引かれ物流が停滞するなど(この情報は2022年ころまでなので、それ以降の変化は把握していません)。
 レオポルドとモリーのブルーム夫妻とスティーブン・ディーダラスはアイルランド史をどう生きたのかしら。

 

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