odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

ジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ I」(集英社文庫)1.2.3 第1部は何者にもなっていないし何もしないディーダラスの青春の一日。

 さて20世紀文学の金字塔に挑むことにしよう。



 表層は「若い芸術家の肖像」の続き。アイルランドを出ることきめたディーダラスはその2年後にダブリンに戻っている。以後、1904年6月16日という凡庸な日(しかしジョイス自身には重大な日)を朝から深夜まで詳しく書いていく。この「現在」はどうやらホメロスオデュッセイア」と対応しているうえ、学芸・色彩・象徴・技術・神話的対応などの厳密なプログラムがあるという。それはジョイスが「計画表」に記載している。なるほどそこから一言一句ごとの厳密な註解を研究者が作り、ジョイスのプランを明らかにしようとするわけだ。素人である俺は、表層をトレースするくらいの軽い気持ちで読んでいく。


第1部 テレマキア
1.テレマコス
 朝8時にディーダラスは出かける準備をしている。「塔(実際に海上防衛目的で数世紀前に作られたものらしい。安いが寒そうだ)」に共同生活をしているマリガンの軽口や冗談を聞かされる。もっと明るくなれと言われるのは、ディーダラスは母の服喪にあるから。母は臨終の際にカソリックの儀式(膝まついて祈る)をするように頼んだが、ディーダラスは拒否したのだ。そのまま母は亡くなったのだが、自分の行為が正当化できるのかと悩んでいたので、マリガンの態度や言い方で傷つく。このあと朝食の様子、ミルク売りの老婆とのやり取りなどがあって、彼らは町に出る。
 共同生活するのは、「神を愛することにしくじった」ディーダラスに、イギリスのユダヤ人ヘインズに、プロテスタント系大学に通うマリガンの三人。その地の宗教(カソリック)からは離れたところにいるので(かつ知的エリートたちなので)、宗教的な引用やほのめかしをしながら、宗教批判(というより信仰生活の批判)ができる。日本の読者にはなかなか厳しい章だ。
 この章はおもに三人称で主にディーダラスに焦点をあてているが、客観的な記述にいきなりディーダラスの内的独白や連想・妄想が挿入される。客観描写と主観描写がいきなり切り替わり、なぜデューダラスがそのような独白や連想をしたかが書かれないので、読者は戸惑う(なので研究者は熱心に謎解きを行う)。

 

2.ネストル
 午前10時にディーダラスは学校(中学校あたり?)で古代ローマ史と17世紀のイギリス詩を教える。教師も生徒もやる気はない。校長から給料を受け取るも、ディーダラスの借金を返すにはあまりにも不足している。午前中で授業は終わるので、校長の原稿を知り合いの編集者に見せようと思う。
 「若い芸術家の肖像」を振り返ると、この生徒たちと同じ年齢のディーダラスは詩作を試み、娼館で淫行に励んでいた。そのような高貴とふしだらを経験したものがたった6年で今度は教師になり、彼らを監督する。立場が逆転すると、ローティーンからミドルティーンはあまりに幼い。ハイティーンから二十歳までの数年でこどもでも幼年でもない「大人」に変化した濃密な時間があったわけだ(それが「若い芸術家の肖像」V)。これも過ぎてしまえば、その変貌を振り返ることはない。
 校長ディージープロテスタントでイギリス式の教育をするべくこの私学を立てた。世界の覇権を握っていた大英帝国にべったりの愛国者。彼のやっていることはイギリスの植民地政策の前線で、イギリスの官僚としてふるまうことである。必然的に現地の人間を馬鹿にし、差別を行う。アイルランド人やカソリックを軽蔑し、反ユダヤ主義者であることを隠さない。校長ディージーからみると、ディーダラスは植民地の現地人であるが、個人的には彼の才能を認め、この学校にいつまでもいる気はないことを悟っている。これは例外。ふだんは排外主義とレイシズムを発している。そのうえ「イングランドユダヤ人に乗っ取られている。昔のイングランドは今は無い(だから取り戻さなければならない、ユダヤ人を追い出すことで)」という陰謀論も口にする。彼の言動はアーレント全体主義の起源」をそのままなぞっているようだ。

 

3.プロテウス
 ダブリン市内についたディーダラスは、市内を歩き回りながら、とりとめないことを考え続ける。その想念をそのまま言葉にする。内容は訳者による解説をみればいいや。おれには個別のテーマはさっぱりわからなかった。ディーダラスがどこを歩いたかもわからなかった。気づいたのは、ディーダラスの想念は彼の見たものを誇張したり想像を追加したりすることだが、その際には言葉がきっかけになっていること。たとえば、前の文章に「鍵」が入っていると、文意に関係なく「鍵」の連想で寝室になり、それがベッドになる。あるいは電報用紙→電文→母の死→伯母の弾劾という流れ。ここには連想飛躍の説明はないから、エドガー・A・ポー「モルグ街の殺人」冒頭でデュパンがやったような言葉や身振りから人の思考の流れを読むことが読者に求められる。読者は探偵のように言葉を捜査しなければならない。
 ディーダラスの想念の取り留めなさの理由は、自作の詩を推敲しているからだった。言葉のリズムと強弱と音を組み合わせる作業が、言葉への感受性を高め、より適切な語句を見出すために脳内の語彙とイメージを総動員するのだ。その過程がこのとりとめない言葉の流れになる。(ということは、思考のテーマがあるディーダラスの独白というか「意識の流れ」では言語生成過程で適切に句読点が撃ち込まれるが、それがない18のペネロペイアでは句読点がなくなり、文の構造も解体するのだな。)

 以上で第1部テレマキアが終了。「テレマコス」は「イタケーの王オデュッセウスペーネロペーの息子で、ホメーロス叙事詩オデュッセイア』の登場人物の1人(wiki)」。テレマコスにもされているスティーブン・ディーダラスはオデュッセウスの息子であるということになる。ではスティーブンに対するオデュッセウスはだれか。

 山形浩生「たかがバロウズ本」を読んでいたら、「ユリシーズ」の冒頭が引用されていた。
山形浩生「たかがバロウズ本」(全文)

https://cruel.org/books/wsb_book/burroughs.pdf

「あれは通常の意味での名文――流麗な格調高い文章――で書かれているわけじゃない。むしろガタガタした、ぎこちない感じさえする、悪文とさえ言える文章だ
Stately, plump Buck Mulligan came from the stairhead, bearing a bowl of lather on which a mirror and a razor lay crossed. A Yellow dressing gown,ungirdled, was sustained gently behind him on the mild morning air. [86, p. 3] 

 最初の単語でいきなりコンマが入って、次にplump Buck Mulligan と同じ母音のはねるような音の単語が三つ続く。これを書きながらぼくはもう10 回もこの文を読んだのでもう慣れちゃったけれど、最初の感じからいえば、しょっぱなでいきなりつまずいて、そのまま三歩つんのめりながらおっとっと、と飛び跳ねている、そんな感じの導入部だ。妙に似た音の音節が固まっているのも意識にひっかかる。そしてこの後すぐに会話が始まるけれど、そのまわりの状況はほとんどわからないまま、省略だらけの得体の知れない会話がしばらく続き、風景の全体像がわかるのはずいぶん先だ。/ (アンソニー・)バージェスは、Joysprick(というタイトルのウィリアム・バロウズ評論書) の冒頭部で、まずこの『ユリシーズ』冒頭部をタイプ1 の「ふつうの」小説に翻訳するところから始める。ダブリンが夜明けを迎え、街が朝日に照り映えて、主婦たちが井戸端会議に花をさかせる――そして文はこの冒頭部の舞台となる塔にズームインして、バック・マリガンとスティーブン・ディーダラスを軽く紹介しつつ、情報量の豊かな会話が交わされる。読者の頭には舞台がくっきりと描かれ、主人公たちの一挙一動が目に浮かぶように描き出される、色鮮やかな記述。/ そしてこの『ユリシーズ』の見事なリライトの後で、バージェスは述べるのだ。こんな風に書かれていたら、『ユリシーズ』には何の価値もなかっただろう、と。『ユリシーズ』の価値は、その美しい描写とか華麗な文章にあるのではない。そしてその価値はもちろん、ディーダラスたちの抱える苦悩が現代的なものだからとか、それが社会的な問題を鋭く描き出しているからとか、ストーリー展開が壮大だとか、そんなところにあるのでもない。『ユリシーズ』のストーリーがいかにくだらないものかは、ウェイン町山ガース柳下が指摘しているとおり[109, p. 127]。/ バージェスは述べる。『ユリシーズ』、そしてその他のジョイス小説の価値は、それがまさにこうしたタイプ1 作家のように書かれていないところにあるのだ、と。それが文学史に残る作品となっているのは、まさにそれが、あまり画的な要素を持たない、一般的には悪文としか言えないもので描かれているからなのだ、と」

「これに対してタイプ2 の作家がいる。変なことばをたくさん使う作家。それを読んでも何か頭にある世界が描き出されるわけでもない。何が起きているかもよくわからない。読んでもいたるところ違和感ばかりでひっかかってばかり、一向に先に読み進めない。そんな作家たちだ。駄洒落、語呂合わせ、韻、文字の遊び、決まった形式への固執――そんなのばかり。表面的に読めるストーリーなんかより、そっちのほうが大事だったりする変な小説や詩。でも、そこにこそ小説の、小説固有の価値があるんだ、とバージェスは主張する。こうした作家たちは小説や文章にしかできないことをやっている。『ユリシーズ』冒頭部の言葉のつんのめり感を、映画で表現できるだろうか? 無理だ。/ それは必ずしも万人が享受できるものじゃない。おブンガク屋さんは『ユリシーズ』のすばらしさがわからないのはダメなやつだ、と言いたがる。でもそれは、駄洒落の好きな人とそうでない人がいるように、単なる趣味の差でしかない。タイプ2 の小説が好きだから何かえらいわけじゃない。単に反応してる部分がちがうというだけだ。が、タイプ1の小説にしか反応できない人は、いずれ小説なんか読まなくなるだろう。それはかれらにとって不合理だからだ。」

 冒頭の部分、丸谷才一・氷川玲二・高松雄一訳では

「重々しく、肉付きのいいバック・マリガンがシャボンの泡立つボウルを捧げて階段口から現れた。十字に重ねた鏡と剃刀が上に乗っかっている。はだけたままの黄色いガウンがおだやかな朝の風に乗って、ふわりと後ろへなびいた。彼はボウルを高く掲げて唱えた」(P15)

 となる。ボウルに訳注がついていて、あとの十字に重ねた鏡と剃刀と合わせて、カソリックの司祭のイメージを持っているとある。タイプ1の文学者である3人はストーリーの流れが明確になるように努め、「いたるところ違和感ばかりでひっかかってばかり」にならないようにしている。2つ目の文でひっかかる「behind him」を巧妙に処理しようとする。「冒頭部の言葉のつんのめり感」はあまり感じない。なのでひっかかるのはそのあとの「省略だらけの得体の知れない会話」になってから。ジョイスは悪文としか言えないもので書かれているのはあまり感じない。山形の解説を読むと、引っ掛かりやつんのめり感のない翻訳はどうなのかなと思ってしまう(なるほど、おれはタイプ1の読者のようにジェイムズ・ジョイスを読んできたのだし)。ここを柳瀬尚紀訳はどう処理しているのだろう。
 

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2023/10/24 ジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ I」(集英社文庫)4.5.6 第2部は中年ユダヤ人ブルームの凡庸な一日。 1922年に続く