odd_hatchの読書ノート

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ジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ VI」(集英社文庫)18 1904年当時の衛生状況を思い出すとダブリンは芳香漂う街。

2023/10/12 ジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ VI」(集英社文庫)16.17 スティーブンとブルームがようやく出会うが交友は始まらない。 1922年の続き



18.ペネロペイア
 午前二時半。すでにブルームは眠りにつき、起こされたモリーはしばらく寝付けない。せっかく寝ていたのに。それに今日のボイランとの情事の記憶が呼び覚まされて。ブルームが尻にキスしたので(過去に肛門性交も経験しているようだ)。モリーの官能がまたうずきだしたのだ。ここで1904年当時の衛生状況を思いだすと、朝起きると顔を洗うようだが歯磨きはおざなり(第1・4挿話)、トイレは汲み取り式(第4挿話)で屋外にあり、風呂に入ることはめったにない(第17挿話でスティーブンが最後に入浴したのは前年の11月と言っている)。洗濯は面倒な行為なのでめったにやらない(洗濯は貧乏な女性の仕事。ジョイスの短編「Cray(土くれ)@ダブリナーズ」参照)。なので、モリーはボイランがシーツにこぼした精液のシミを放置している。馬車が主な通行機関なので馬糞が路上にあり(ブルームは靴で踏むことを恐れたり躊躇したり)、夜間にはそこらに放尿(第17挿話)。1960年代初頭にパリを訪れた開高健は御叱呼の匂いに驚き呆れたというが、それ以前の時代のダブリンもまた芳香漂う街だったのだ。ブルームが臭いにおいに鈍感で、匂いのきついキドニーパイやゴルゴンゾーラのチーズを好むのもそのせいと思うし、尻にキスすることがこの時代ではちょっとありえないような性癖であると思われそう。
(同時代の日本の都市と比較すると、江戸や地方都市には銭湯があって週に数回は入浴していたようだ。ある程度の金持ちなら毎日入浴できたかも。夏目漱石の小説や1909年生まれの淀川長治の伝記が参考になる。)
淀川長治「映画が教えてくれた大切なこと」(扶桑社文庫) 
 官能の記憶を反芻するモリーは自分の性体験を思い出す。積極的に思いだすというよりも、身体的な感覚から過去が呼び出されるという感じで。すると、ブルームだけでなくボイランその他の男たちが(想像の中で)現れる。眠気を感じる頭の中では、はっきりと彼らを区別できるわけではなく、ある映像が別の記憶映像になって別の男が出てきて、その変化に気づかないというように。この第18挿話でモリーは男たちを「彼」と呼び続け、ついに具体的な名前を示さない。個別具体的な男との体験を反芻するのではなく、性体験という現象を呼び覚ましているとき、男は類になるのだね。夢の中で、人の顔がどんどん変わっていく感じに似ている。(なので訳者の解説のように、順序だった合理的な「意識の流れ」とは思えなかった。それはあくまで明晰になった昼間の気分で再解釈したときのまとめだ)。
 作者ジェームズ・ジョイスは1882年生まれ1941年没。そのため作品はパブリックドメインになっている。原文はとても安い値段で電子書籍で手に入る。無料のPDFも見つかる。そこで第18挿話「ペネロペイア」のラストを引用する。

and the sea the sea crimson sometimes like fire and the glorious sunsets and the figtrees in the Alameda gardens yes and all the queer little streets and the pink and blue and yellow houses and the rosegardens and the jessamine and geraniums and cactuses and Gibraltar as a girl where I was a Flower of the mountain yes when I put the rose in my hair like the Andalusian girls used or shall I wear a red yes and how he kissed me under the Moorish wall and I thought well as well him as another and then I asked him with my eyes to ask again yes and then he asked me would I yes to say yes my mountain flower and first I put my arms around him yes and drew him down to me so he could feel my breasts all perfume yes and his heart was going like mad and yes I said yes I will Yes.

 日本語の翻訳では句読点がないのでとても読みずらいのだが、原文だと「流れ」がよくわかる。というのは文が区切れるところが「and」でつながっていて、文が完結していることがわかるのだ。日本語では「~~して、~~し、~~で、~~と・・・」と延々とつなげていくようなものか。近代の言文一致体が発明した女言葉である「~~よ、~~なの」とつなげていくようなものか。そういえばこういう喋りは幼児にはありそう。なので集英社文庫版の翻訳では難しい漢字をカナ書きするなどして児童書のような文体にしていた。「and」が何度もリフレインされて、五線譜の縦線のようになる。翻訳もこういう延々と続く文体にしているが、原文にでてくる「and」のリフレインの効果を出すまでには至らない(というか不可能だ)。
 モリーの思考や意識が切れ目のない文章で表現されるのに対し、ブルームとスティーブンの思考や意識は単語の羅列や短文で書かれ、句読点が入って、ぶつ切りにされる。
 でもモリーがふだんから幼児的なしゃべりをしたわけではないので、自分にはひどく違和感(というか女性を軽視していないか。モリーの無知や幼児化はたんに教育を受ける機会を奪われたからにすぎないのだし。彼女が歌手であるからといって高等・専門教育を受けたということはなく、スカウトされたり劇場に出入りしたりして誰かにOJTで教わったのだろう)。
 「意識の流れ」にストップをかけるのが、yesということば。これがでてくるごとに、話題が変わり、別の連想が始まる。訳注をみるとこのyesに肯定やときに否定などの意味を見出そうとするようだが、モリーの「意識の流れ」では「そうよ」「そうなのよ」「うんうん」というあいづちやうなづき、「ああ」というため息や息継ぎくらいのことばだと思えばいいんじゃない。下の私訳では「yes」を欲望を表わす動詞の隠喩になっていると解釈したところもある。当時の道徳観ではいってはいけない四文字言葉をモリーは「yes」にしている。中年以上の日本人が「アレして」「ソレだよ」というのと同じ。もうひとつ大文字のOもなんどもでてくるが、これはモリーの喘ぎ声や吐息なんだろうな(字面でみると、これが口や女性精器の隠喩であるという解釈もあるんだって、へえ)。以上、文法的に正しいかそういう口語表現があるかは知りません。実証主義は放棄して、妄想しました。
 なのでこの改行無しの文章にへこたれそうになるときは、yesで区切ればいい。あと、この章は7回改行があるが、これはモリーが浅い眠りでうたたねしたしているとみればよい。筒井康隆「虚人たち」なら空白で表現したところにあたる。
 で、モリーは110ページ分(文庫版翻訳で)の「意識の流れ」をしたあとには、ふたたび眠気が訪れていて、もはや自分と他人の区別はもうろうあいまいになっている。heやhimは具体的な誰かではなく、モリーの体に触れた他人を総称することば。官能は次第にたかまっていく。モリーの身体も官能の集まりのようになっていて、「he asked me would I 」のあとに「君が欲しい」「入れたい」などと続くのが即座にわかって、自分の乳房が「my mountain flower」と呼ばれることに興奮し(翻訳の「山にさくぼくの花」だとこの官能性が伝わらないねえ。それに「yesといっておくれ」と男視点になるのは変。あとこの「my mountain flower」も数行前の「a Flower of the mountain」からの連想で生まれた言葉)、自分の官能をさらに高める。男はモリーに覆いかぶさるようにしていて、言葉にならない言葉をささやいている。そして「his heart was going like mad」と欲望が狂おしいほどに高まるのを感じる(ここを「彼の心ぞうはたか鳴っていて」と上品に訳しては不十分)。そして「and yes I said yes I will Yes」と「いいわよ」「入れて」「ほしい」となるのだ。なるほどこの部分の「yes」はあいずちであり肯定であり誘いである多義的な言葉。最後の「Yes」はYが大文字になるが、Oが女性性器をあらわしているのだとすれば、Yは勃起した男根であり、「Yes」は挿入の隠喩にほかならない。もちろんそれは想像上のもの。ここでモリーはレオポルド同様に眠りについたのだ。
(訳注によると、ジョイスはyesを肛門の意味で使ったそう。あらら、誤りましたか。でもジョイスの言い分は小文字のyesに対してで、大文字のYesのことじゃないよね、と強弁してみたい。素人が何言ってるんだ笑。)
(最後のページは、大正生まれで教養と学識の高い大学教授は、そのまま訳すと「チャタレー夫人の恋人」と同じ轍を踏むとでも思ったのか、いささか上品に訳しすぎた。同じ訳者たちの初訳は1964年。それに英米ジョイス研究家の高邁で道徳的・文学的解釈に引きずられたのか。解説にある「このYesはずいぶん多義的で渾沌としている。それはブルーム夫妻が正常な夫婦関係を取り戻すことの予兆であるよりもむしろ、一切の女性的なものの肯定かもしれない」は読みすぎじゃないかと思う。Yesはあくまでモリーひとりのなかでのことでしょう。Yesといったのはモリーであって、ブルームがそうと思っているかはわからない。夫婦関係を取り戻す可能性をここに見るのは無理筋。「女性的なものの肯定」といっても、モリーの感覚は人類愛には向かわないし、宇宙的な合一感覚というのもないし。それに「女性的なものの肯定」だと男が女性的なものを肯定するというゲーテの「ファウスト」みたいなのを想定しそうになるが、ここで肯定する主体があるとすればモリーしかいないので、それも無理。モリ―という「女性的な存在」が世界を性愛を肯定する(のを男が観察している)ということになる。「13.ナウシカア」が少女文学のパロディ、文体模倣だとすれば、「18.ペネロペイア」は官能小説、性愛文学のパロディ、文体模倣にあたる。女性の一人称独白によるその種の小説は19世紀後半から、とくにイギリスでたくさん書かれた。ブルームが持っていた「罪の甘い欲望」とかいう本もその種のものじゃないか。)
(というわけで「and the sea the sea crimson」のあとを私訳。カッコにいれた(したいの)と(していい)と(いいのよ)と(そうして)は「yes」のルビ。

「そしたら海ときどき海が燃える宮殿のようだったの夕日がかがやいていたのアルマダ公園のイチジクもそうよどこのへんてこな通りもピンクとブルーとイエローの家とバラの庭もそうだったしジャスミンゼラニウムとサボテンもそう私が山の花の乙女になったジブラルタルでもyesアンダルシアの女の子がやってるようにバラを髪にさしてみたの私は赤い服を着てみたいyesそしたらすごかった彼がキスしてきたのムーア人が作った壁のしたにいたときのことよ彼のことも別の男のことも思い出したのyes彼に目で聞いたのyes(したいの)ともう一度聞いたのそしたら彼もyes(していい)かいと聞いてきて山のようなぼくの花をそうしたいというのyes私が先に彼に腕を回してyes彼がかぶさるように抱き寄せたら私の乳房に触れてすべての匂いをかいでyes彼のハートは狂ったようになっていってyes(いいのよ)いったのyes(そうして)ほしいのYes」

 通常、ぼくらは自分を中心に半径5~10mくらいの空間(というより身体の5倍から10倍くらいの空間)を意識しているものだが、yesのときには〈この私〉と相手の身体だけに時空が圧縮され(でそれが全宇宙になっている感覚にな)るものだ。この感じがよくわかる原文なので、そうなるようにしたかった。よくある性愛文学、官能小説はそこまではいかないねえ、どうしてもピーピングしている者の視線と身体が文体に入ってしまうのだ。)

(訳注をみると、仏訳はおれと同じ解釈のようだ。追記。バーソロミュー・ギル「ジェイムズ・ジョイス殺人事件」角川文庫に1962年の旧訳が引用されていた。それは拙訳と同じ文体。伸ばした鼻をへし折られました。素人が考えるようなことは専門家はすでに十分検討済でした。まこと柳瀬尚樹のいうとおり「ただ英文の字面をなぞったまで(@ジェイムズ・ジョイスの謎を解く(岩波新書P181)」の代物でした、俺のは。)

バーソロミュー・ギル「ジェイムズ・ジョイス殺人事件」角川文庫引用される丸谷・氷川・高松の旧訳

「そしてあたしはめでうながしたのもういちどおっしゃってそうよ(イエス)するとかれはあたしにそうよ(イエス)やまにさくぼくのはなイエスといっておくれとそしてあたしはまずかれをだきしめそうよ(イエス)そしてかれをひきよせかれがあたしのちぶさにすっかりふれることができるようににおやかにそうよ(イエス)そしてかれのしんぞうはたかなっていてそしてええ(イエス)とあたしはいったええいいことよイエス

ムーア人が作った壁の下でブルームは初めてモリーにキスした。ブルームも覚えている。「13.ナウシカア」の一節。「Molly, lieutenant Mulvey that kissed her under the Moorish wall beside the gardens.」)
(夕日→イチジク→バラ→アンダルシア→赤という連想でモリーは「赤」を身にまといたいと願う。20世紀半ば以前は、赤の染料は高かったので、上級階級や僧侶の上の階位の人しか着られない。赤を着れば注目され、ちやほやされるのだ。そうなりたいとモリーは想像する。さらに貧困から脱出しない、ここから抜け出したいというモリーの願望のシンボルでもあるのだろう。また赤はブリテンの色だし、男性が身に着ける色だともいう。いろいろ深読みできそうな一節だ。)
(「かぶさるように抱き寄せたら」は「drew him down to me」だけど、うまくいかないねえ。ここには「the sea the sea crimson sometimes like fire」のイメージが反映しているんだけど、それもでていない。)

 

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2023/10/09 ジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ VI」(集英社文庫)(余韻) スティーブンとブルームとモリーはアイルランド独立機運の高まりをどう生きたかしら。 1922年に続く