odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

ジェイムズ・ジョイス「若い芸術家の肖像」(集英社文庫)-I、II とても感受性が強く、頭のよいこどもの成長の記録。


 以前、1979年に講談社文庫ででた丸谷才一訳を数年後に読んだ記録が残っているが、内容をちっとも覚えていない。20代の自分はもっとテーマがわかりやすいものでないと、読みこなせなかったし、解説も新版の集英社文庫と比べると貧相だったので、読み方の指南を受けることもできなかったのだ。

 それから40年。再読を試みます。
(今回読むのは集英社文庫で出た丸谷才一による改訳版。ほぼ新訳といっているようで、たとえば冒頭、ディーダラス3歳のころのナラティブは、講談社文庫版では文字を大きくするタイポグラフィーが使われていたと記憶するが、集英社文庫版ではタイポグラフィーは使われていない。)
 とはいえ、ほぼすべての語句に出典を調べるような広範な研究が行われている。それは本文と同じくらいのページ数になった脚注でわかるのだが、それを逐一確認しながら読むことも面倒。文学の素人としては、そこまでの手間をかけてじっくりと丹念に読む時間を捻出することはできない。訳者の解説も充実している。解説のあまりの高尚さにおれにはついていけない。そこで、とりあえず文字をトレースするという怠惰で表層的な読み方をする。
 作者ジェームズ・ジョイスは1882年生まれ1941年没。この小説もジョイスが生きてきた時代と同じ時代を舞台にしている。ジョイスの生涯を詳しく研究すると、どうやら主人公スティーヴン・ディーダラスが見聞きしたことは実在の場所や事件と対応できることが分かっているようだ。描写はプライベートで、社会とのリンクはなさそうなのに、極東の読者が読み飛ばすような語句にリアルが引っ掛かっている。こういう書き方をした人はほかに思い当たらないなあ。

1.ディーダラス3歳から10歳ころまで。
 とても感受性が強く、頭のよいこどもの成長の記録。19世紀末のことなので、こどもの養育にあまり男は関わらなかったとみえて、父は厳格で恐怖を感じ、母には甘えるようであったのかしら。6歳で全寮制の学校に入学して親から離される(当時のブルジョワやシトワイヤンの一般的な在り方)。父母の介助のないなかで、いきなり教師(当時のことなのでとても厳格で暴力的)の支配と級友たちとの争闘の中を生きることになる。逃げ場がないのはつらそう。しかしディーダラスは生徒監に不当な懲罰を受けたので、校長先生に直訴する。10歳のこどもが抵抗権を行使するのはすごいぞ(一方、19世紀の全寮制ギムナジウムの厳しさ、児童ネグレクトはひどいものだった。ヘッセ、トーマス・マンらが怨嗟を込めて書いているのもよくわかる)。クリスマスに実家に帰ると、カソリックプロテスタントのいさかいが繰り広げられる。アイルランドカソリックイングランドのプロテスタンの対立はとても根深い。
 こどもを語り手にしたり、こどもを主人公にすることは、よくある現代文学の手法だが、たいていの場合はこどもの皮をかぶった大人であって、その年齢にはありえないような洞察や知識を披露してしまう(たとえば、福永武彦大江健三郎など)。でもジョイスの作にはそういう不満がない。同時代のこどもにしてはちょっと利発に過ぎるとか頭が良すぎるとかのひっかかりはあっても、このナラティブはこどものものだ。とくに感心したのは未来に完了したことからさかのぼって回想することがないこと。話者は現在に居て、その先どうなるかを把握していない。とくに10歳以前の年齢であれば、語るべき過去もなく将来到来する未来のイメージも持たず、いつも現在にいる。その時の感じが文体に現れている。それだけでも傑出した技術の持ち主だ。

 

II.ディーダラス10歳から14歳まで。
 頭のいい子供だったのだ、ディーダラスは。アイルランドの義務教育でバイロンテニスンシェイクスピアなどを読んでいるうちに詩への関心を持つ。「モンテ・クリスト伯」を読んで空想の翼を広げ飛翔しようとする(マンガ、アニメや映画のない時代は小説で想像力を養ったのだ)。ことにメルセデスモンテ・クリスト伯の恋人)に思いをはせるようになると、こどもの現実と頭の中のイメージのずれに気づく。ここではないどこかの誰かやなにかを求めるようになる。その気分がこのようにつづられる。

「自分の魂がたえず見ている実体のないイメージと、この現実の世界で出会うこと、それが求めていることであった。どこにそれを探せばいいのかはわからないが、こちらからあからさまに行動をとらなくても、このイメージのほうから自分を訪ねて来てくれるのは、なんとなく予感めいたもののせいでわかる気がした。二人はまるで互いに見知っているように、そして待ちあわせの約束をしていたみたいに、ひっそりと出会うことだろう、たぶんどこかの門で、それとももっと人目につかぬところで。二人きりで、闇と静寂にとりかこまれて。そしてこの上ない優しさの瞬間に、自分は変貌することだろう。彼女に見つめられながら、目に見えない姿に変り、そしてたちまち変貌するだろう。弱さと臆病と未熟とは、この魔法の瞬間に自分から離れてしまうだろう。(P123)」

 おお、この一節を読んで久しく忘れていた同じ年齢ごろの自分の読書や手慰みの詩作を思いだしたよ。こんなに高尚な語彙をもたなかったし、予感めいた気分もなかったと思うけど、「弱さと臆病と未熟とは(略)自分から離れてしまうだろう」という期待はあったと思う。それを想起させる文章を書けるというだけですごい。幼児や児童のころを思い出させる文章はもしかしたらナボコフにあったかもしれないが、ジョイスの喚起力のほうがうえ(そんな比較は意味ないけど)。
 「現実」では父は失業したか事業に失敗したかで、一家は引っ越しを余儀なくされ、貧困に陥る。ディーダラスは以前のような高額な学校に通えなくなる。進学した学校では粗暴な級友にいじめられるようになる(頭の良さでめだってしまうのだ)。それ以外に、死を意識するようになったり、同世代の女の子にほのかな愛情を持つようになったり、落胆する父に幻滅を持ったり(愛情を失うわけではない、畏敬や畏怖の感情が薄れるのだ)。あまつさえ、14歳で作文で多額の賞金を貰ったら浪費したあげく、娼館にいって性の快楽を体験する(この年でねえ)。急速な勢いで、こどもではないところに行っているのだ。

 

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2023/10/30 ジェイムズ・ジョイス「若い芸術家の肖像」(集英社文庫)-III、IV 自我に目覚め宗教的ナショナリズムにかわるアイデンティティを模索する。 1914年に続く