odd_hatchの読書ノート

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ジェイムズ・ジョイス「若い芸術家の肖像」(集英社文庫)-III、IV 自我に目覚め宗教的ナショナリズムにかわるアイデンティティを模索する。

2023/10/31 ジェイムズ・ジョイス「若い芸術家の肖像」(集英社文庫)-I、II とても感受性が強く、頭のよいこどもの成長の記録。 1914年の続き


 読んでいる間はわすれてしまうが、19世紀末のアイルランドはイギリス統治下にあった。プロテスタントのイギリスとカソリックアイルランド修道院付属の学校に通うこと、カソリックの衣装を着てプロテスタントばかりの街を歩くことはとても政治的な主張をすることになる。以下の章で、主人公ディーダラスは自我に目覚めるが、信仰生活を継続しないという選択はおのずと宗教的ナショナリズムにかわるアイデンティティを模索しなければならない。

III.ディーダラス14歳から16歳まで。
 性愛文学のように直截には書かれていないが、修道院に付属する全寮制学校の生徒にもかかわらず、ディーダラスは娼館に足しげく通う。なじみの「嬢」がいたのかどうかはさだかではないが、ときおり聞こえる客と「嬢」の会話を覚えるくらいには頻繁に言っていたのだ(よく金があったね、それによく発覚しなかったものだ)。ほぼ同時期に書かれたアポリネール「若きドン・ジュアンの冒険」の主人公は13歳だったから、今から100年前の若者たちはとても早熟だった(と同時に若者の放蕩を社会も容認していたのだった)。その時の感慨をディーダラスは全く語らないが、肉体には甘美なできごとであったに違いない。しかも彼は監督生という選民。監督者でありながら、淫行にふけるという二重生活を送っていた。それが15歳か16歳の12月、ザビエル師を偲び内省にふける「静修」の期間に、神父による説教で強烈な打撃を受ける。罪の発生のしくみ、罪を贖わない人に化せられる地獄の責め苦、神から見放された孤独や自己懲罰意識がディーダラスを恐怖と混乱と罪障に導く。彼は恐れる(読者は神父の長い長い説教に悶絶しそうになりながら耐えることになる。講堂に集まった生徒たちは読者よりももっと長い時間をかけて、神父の言葉を聞き続けたのだ)。そして、苦しさから抜け出す方法として告解を選ぶ。町の中の礼拝堂にいき(校内の礼拝堂で告解できる「罪」ではない)、神父に罪を告白し、許しを請う。告解という儀式をすることでディーダラスは不安と堂々巡りの思考から抜け出すことができた(カウンセリングやコーチングと同じ効果を持っているのだろう)。
 自分の14歳から16歳と全く違う。自分は学校の部活にのめり込んで(ぬけられなくて?)、集団の中で暮らすことを選び、同世代の「友人」との違いを意識しながら他人と似たような行動をとるようにしていたものだ。なので罪があるとすれば、法や道徳に違反することよりも集団との関係で問題になることだと思ったものだ。でもディーダラス(あるいはキリスト教圏の人)では、罪は神との関係で定まるようだし、主に肉体が精神や霊の掟から逸脱することであるようだ。日本のわれわれは「中二病」の独我論にはまっているころ、キリスト教圏の未成年は「死と審判と地獄と天国」への罪と罰を深刻にかんがえていたわけだ。この違いは、キリスト教に無知だった20代前半の読書では理解しようもなかったな。

 

IV.ディーダラス16歳から17歳まで。
 告解の後、ディーダラスは信仰生活に集中する。とくに禁欲をよくしなければならず、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚において快楽への誘惑にとらわれず、堕落の恐怖を確認するために、さまざまな「儀式」をディーダラスは実行するようになる。そのような生活への規律は教師が認めるところとなり、聖職者になるように誘われる。家の貧困があり(なんども家族は家を追い出されている)、現在の学費免除の特待生扱いが継続するのは望ましいことで、ディーダラスは自分が司祭になった時を空想したりもする。しかし、変化が訪れる。官能を忘れることができず(ストッキングへのフェティシズムなどにあらわれる)、信仰生活の規律がうっとうしいものになり、司祭の知恵に満ちた訴えは自分の急所に届かないように思われる。教師のいうことは疑念を抱かせるものであり、こどもっぽく響くようになった。さらに上の神学校に進み司祭になるための信仰生活を送ることは自分の自由を終わらせるのである、なにより自分は一人で学ぶように運命づけられた男であると自覚したのだった。他の神学者の卵のようには生きることはできないだろうし、他人じみたことは自分のようではないし、ともあれ自分は他人と違うのだ。幼児期・少年期とは決別した思い、別の人格に生まれ変わったような思いがディーダラスに溢れる。ディーダラスは神父の誘いを断り、大学進学を希望する。両親と神父の打ち合わせあから抜け出して、海辺に行くとスカートをまくって海に入っている少女を見つける。その突然の出会いと官能に打たれる。
 幼児期や少年期には親や兄弟、あるいは同世代の仲間たちといっしょにいて、けんかをしながらもいつも一緒にいることで自分が同一であることを確認していたものだ。それがあるときに、あるいは時間をかけて、自分はひとりであるのだ、親や兄弟や「仲間たち」とは違う存在なのだ、彼らとの関係のうっとうしさを脱して「自由」であることを欲したい、自分ひとりで学びを続け単独者としてもっと広い社会や世界に行ってみたい。そういう気分が生まれる。この気分が生まれる過程をこれほど正確に記述した「小説」はほかにはないのではないかな。凡百の「青春小説」はおもいかえせば、冒頭から大人になっているか、終結に至ってもこどもや少年期のままだったりする。ディーダラスが記述した変化や再生、「大人」の象徴としての官能とのであいはたいていいつも隠されている。そこを書いたということで、本書は傑作。(とはいえ、IV章の記述もダンテ「新生」という先行作を参照し、パスティーシュにしているのだが)。ディーダラスのミドルティーンは自分の経験とは全く異なるのだが、心的体験には共通性があり、本書を読んでいる間およそ半世紀前の自分の心の移り変わりを思いだせたのだ。

 

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2023/10/27 ジェイムズ・ジョイス「若い芸術家の肖像」(集英社文庫)-V 他人といることで孤独がいや増す文体と観察を持った小説、 1914年に続く