odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

ウィリアム・シェイクスピア「尺には尺を」(白水ブックス) 凡庸な官僚が尺度にするのは法だが、暴君は何を尺度にすれば正義になるのでしょう。

 白水ブックスの解説では、過去にあった本作への批評は芳しいものではなかったと言っている。まあ、人権が確立する前の創作であるし、マキャベリ君主論」の時代であるし、封建制で統治者の権力は神の威光といっしょになってとても強かったのであるし。近代の基本的人権の尊重、個人の自由などの観点から批判するとなると欠陥・欠点だらけになってしまう。登場人物も近代からすると、個性やリアリティのないキャラになっていると批判されるが、中世からルネサンスの人を近代基準で評価するのは不当。


 話は3つに分解できる。
1.ウィーンを統治する公爵はしばらく領地から出るので全権をおまえに預けると、腹心の部下に命じ出立した。部下は20年来執行されていない法に基づき、市民(都市の住民程度の意味)の暮らしを統制する。結婚前の娘と姦通した青年を逮捕し、死刑を命じた。公爵の狙いは自分の統治が正しく行われているかを見張るため。よその国から来た神父だと偽って、諸所に出入りし、見聞きする。
2.死刑を命じられた青年を救うために、妹が頑張る(身重になった娘は動きが取れない)。典獄などの手引きで新たな統治者に合うが、これが難物。規則と法を盾に頑として命令を変えない。しかし女好きであって、妹に処女をくれれば放免すると言い出す。妹は拒絶し、青年は死を受け入れる努力をする。神父に変装した公爵は妹に同情し、翌日の死刑を回避するトリックを思いつく。
3.女好きな統治者、実は過去に姦通したことがあり、もみ消していた。公爵はその相手を見つけ出し、死刑の命令を取り消させる策を考え付く。

 以上が緩やかに進行し、最後の幕で新たな統治者の前に現れる。すなわち、青年の首が届き、過去に姦通した相手に告発され、公爵が突然帰ってきて権力を取り上げられ、放埓な男ともども奈落に突き落とされる。一瞬ではあるが権力を持った暴君が、暴走したことにより転落するという次第。過去の失態・失言の責任もとらされ、このお芝居の教訓は因果応報になってしまう。
(強弁すれば、ベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」のような18世紀後半にはやった救出オペラの原型である、といえなくもない。)
 原題は「Measure for Measure」で、マタイによる福音書7章7節「 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう」に関係しているという。

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 権力を預けられたもの・アンジェロは実は法に則っていて、法治主義の立場からすると「よい」。姦通の青年を逮捕したことに私情は絡んでいないので、そこにも問題はない。では法をその通りに執行しようとするアンジェロはなぜ処罰されなければならないのか。むしろ青年の恩赦を命じたより上位の権力者である公爵のほうが法治主義を破り、統治に私情を交えているのではないか。と思うと、アンジェロが依拠したMeasureを超えるMeasureがなんであるかは、近代の発想では理解しがたいことである(そう思ったのか、シェイクスピアもアンジェロが姦通していたという過去を持ち出し、処罰するものが処罰に値する行為をしていたというダブスタを用意した)。この時代の統治者は神に選ばれたものであり、その言動は神の威光が反映していると考えていたから、当時の観客は納得していたのか。それとも好色なアンジェロを処罰することで快哉を発したのか。
 とはいうものの権力を預けられて暴君に変貌したアンジェロには悪のすごみがない。杓子定規な堅物で、好色な官吏であるだけだ。権力を持つことに戸惑ったり不安に思ったり、それを克服するなにかがあったり(「マクベス」)して、もう少し素を見せられれば。そういうものを持たない俗物なのだろうけど(ここも強弁すれば、国家機構にからめとられた俗物であるアイヒマンのような凡庸な悪を表しているともいえる)。また全編にわたり正しさを示す公爵が暗躍するのが丸見えなのも残念。19世紀以降であれば変装して別人として現れ、事態をかき回し、最終幕で「あるときは謎の神父。あるときは・・・しかしてその実態は」と名乗りを上げて正体を明かしただろうものを。それをみたアンジェロが驚愕・心神喪失するような演出もありえただろうに。もう少し盛り上げる工夫があったのではないかと歴史的遠近法を使いたくなる(シェイクスピアの時代では、観客を手玉に取るようなトリックは受けなかったと思うけど)。

 

 逮捕された青年を救うために、その妹や旅の神父(実は公爵)が典獄を伴って獄舎を訪れ、青年と会話を発する。これも近代の制度からするとありえない。でも近世まではこのようなコネが聞いたとみえる。実際、デュマ「仮面の男」黒岩涙香「鉄仮面」など17世紀を舞台にした19世紀の小説に同様のシーンがあり、19世紀になってもベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」のように獄舎の場面があったりする。19世紀初頭の警察改革で変化が起こって、できないようになった。