odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

ウィリアム・シェイクスピア「オセロー」(岩波文庫) 尊大で臆病な男の嫉妬の心理分析。悲劇を止められないのは、男たちが女をコミュニケーションに加えなかかったから。

 これを読む前にまずヴェルディの歌劇「オテロ」を見てしまったのだ。なので、この劇はほぼ同世代の中年男であるオセローとイアーゴウの闘争であり、そこに巻き込まれたデズデモウナの死が悲劇なのであると思ったのである。筋を確認するために、戯曲を読んだら、さっぱりよさがわからなかった。ぼんくらである。
(見たのは1959年の第2回イタリア歌劇団上演の1985年ころの再放送。アルベルト・エレーデ指揮NHK交響楽団オテロマリオ・デル・モナコ、イヤーゴがティト・ゴッビ、デズデモナがガブルエルラ・トゥッチ。2月4日の映像と2月7日の音声の二種類が残されている。日本人スタッフの技術は二流なのだが、主演の3人と指揮者がすばらしい。以来幾多の演奏を見聞きしているが、これを超えるものには出あっていない。)

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 今回は岩波文庫で読み直し。重要な指摘は、オセローは黒人であること。これまではムーア人という混血だろうと思い込んでいたが、そうではないと。アフリカ北海岸生まれとみてよいとのこと。これまでは自身の愚かさを悔いる姿と格調高いセリフに白人の影を見たいのであったが、そうではない。21世紀の(というか1800年以降のナショナリズム成立とその反映である)人種差別の見方が古典の解釈に深くしみ込んでいたのだった。もちろんシェイクスピアとその時代に人種差別がなかったというわけではなく(第5幕で殺人を犯したオセローを弾劾する人々のセリフに人種差別は入り込んでいる)、黒人が将軍になり貴族に上ることができるような寛容な時代であったわけでもない。それらを隠すために、オセローを「白人化」するのはダメな読み方なのだ。そこを確認しておこう。
(オペラでは長らくオセロを非黒人歌手が務めるとき、顔を黒く塗っていたものだが、ブラックフェイスは差別行為とみなされるようになってから、どう演出するようになったのだろう。映像を集めていないので、最近の状況はよくわからない。)
 オセローに復讐したがるイアーゴウであるが、ヴェルディのオペラではいくつかのアリアを任されるほどに重要な人物になっている。彼が陰湿に暗躍し、オセローを追い詰めていくほどに、オセローの苦悩が際立つという仕掛けになっている。でも戯曲を読むと、イアーゴウはとても軽い。デズデモウナの軽口に合わせて即興の歌を作ったり、嫌みを込めた軽口を返したり。むしろ道化のような存在に近いのではないか。オセローへの対抗心は根強いようだが(旗手として重用されているが副官に昇進できないのが原因か)、復讐の計画はずさん。というより計画などなく、まず動く(主に口で)。それで人が動いたら、その影響を敏感にかぎ取って、ちょっと上乗せする。そういう行き当たりばったりのお調子者なのだ。おそらくイアーゴウはオセローが苦しむことで満足して、その先にどうするかというビジョンなどなかったのだろう。オセローに嫉妬を吹き込むのに合わせて、ロダリーゴウから宝石をせしめ催促されても返さない。そういう空っぽで空虚な悪。(最後になって、自分の関与した犯罪が暴露され、官憲に追及されることになったとき、急に「もう口は訊かない」と強い決意を示す。より強い力に個人で立ち向かうことになったら、急に強さを持つようになった。自分の存在理由を発見したのだね。)
参考:シムノン雪は汚れていた

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 なので、悲劇の焦点はオセローにある。戯曲によると、オセローは40歳を超えた(当時としては)高齢。一方、デズデモウナは20歳にもなっていない。イヤーゴウは28歳。都市の権力の一部と財産を入手したが人生は下り坂にある中年男が年若い、娘のような女性をめとる。自分の力を信じられないオセローはデズデモウナの愛を留めておくために、権力しか使えない。でも、それ以上に不審と疑惑が強くて、デズデモウナに近づくことができない。イヤーゴウに疑惑を吹き込まれたとき(イヤーゴウの語りはとてもうまい)から、オセローはだれも信用しなくなった。そこには出自の影響があるだろう。彼の周りには上司とライバルと部下しかいない。オセローの行動規範は尊大と臆病なのだ。唯一内心を吐露できるのはイヤーゴウのみ。オセローがコミュニケーションを遮断し、イヤーゴウ以外には暴力的にふるまうようになったのがオセローの破滅の原因になった。状況を俯瞰するように考えれば、オセローは正確な判断をできたのだろうが。オセローは優秀な軍人ではあっても、彼は孤独にすぎ、自分を観察することには不慣れで制御の方法を知らなかった。
 本作では女性の存在感が強い。デズデモウナにしろ、イヤーゴウの妻エミーリアにしろ、キャッシオが入れあげる娼婦ビアンカにしろ、強い主張を持ち、どしどし男の会話に乗り込んでいく。ほかの男らがオセローの嫉妬やイヤーゴウの奸計に気づかないのに、彼女らは正確に事態を認識できる。悲劇を止められないのは、男たちが女をコミュニケーションに加えなかかったから。
 シェイクスピアの戯曲では珍しく、超常現象はないし、異世界の住人は現れないし、複数の筋が同時進行することがない。主要人物である5-6人に注意していれば、筋を追うことができる(冗談や地口で緊張をほぐす道化や使用人がいないが、それはイヤーゴウが全部背負う)。それに、事件は主にこの三人の間で起こり、権力の取り合いや他の権力の介入もない。作品の世界はわりとせせこましい。その分、人物の心理描写ができた。とても近代的な作品だ。(解説によると、トルコ人によるサイプロス島(第2幕以降の舞台)攻撃は1570年だったとのこと。すなわち1604年初演のこの劇は当時の現代劇だったのだ)
 戻ってヴェルディのオペラをみると、戯曲から読み取れるところからはずれた解釈になっている。たぶん当時の読み方だったのだろう。

 

<追記>
 オセローの「嫉妬」はこの解説が秀逸。

「嫉妬するわたしは四度苦しむ。 (ロラン・バルト
嫉妬している人は、自分が排除されたことに苦しみ、自分が嫉妬という攻撃的な感情に囚(とら)われていることに苦しみ、その感情が愛する人を傷つけることに苦しみ、そして自分がそういう凡庸な感情に負ける「並みの人間」であることに苦しむ。いずれの局面でも自分をはずせない。人であるとは難儀なことだ。フランスの批評家の「恋愛のディスクール・断章」(三好郁郎訳)から。」
折々のことば:2098 鷲田清一(2021/7/20付朝日新聞
https://www.asahi.com/articles/DA3S14990712.html?iref=pc_rensai_long_76_article

 まるで「オセロー」の解説であるかのように、「嫉妬」を分析している。

 ひとつだけ付け加えれば、他人からは嫉妬による言動であるとわかっても、当人にとって嫉妬は事後的にしか認識できない。渦中にあるときは、怒りや悲しみ、沈鬱などの感情の激しい起伏、激情による突発的な行動などが嫉妬に基づいているとは認識できない。ことが終わってから、内省的になり「自分」を外側から見る、あるいは観察する自分と観察される自分を区別できるようになってから、過去の感情や行動が嫉妬であったとようやくわかる。ロラン・バルトが指摘する「苦しみ」のうち最初から3つ目までは、事後になってからふり返った過去の中に嫉妬を発見することに由来する。認識できたときには、ずっと排除されていた事実に悲しみ、苦しみ、その排除は未来も継続することを知り改めて苦しむ。過去にしでかしてしまった行動を修正することはできない。愛することを求めても、愛する人を過去に傷つけたという認識は愛する人を再び・未来にわたって傷つけることになると認識し、そのことに苦しむ。嫉妬を認識したとき、「攻撃的な感情に囚われて」いたことからのみ解放される。それは新たな「凡庸な感情に負ける『並みの人間』であること」に対する苦しみを生む。
 オセロウが自分の嫉妬を発見したのはデズデモウナを絞殺してしまってから。なので、オセロウはしでかしたことの大きさ・重大さに後になって気づき、もうどうしようもないところに追い込まれている。追い込んだのは自分自身なので、行動を正当化・合理化することもできず、茫然とするしかない。
(ここで分析した嫉妬は男から女に向けられたものの場合、だけに有効な分析ではないか。男から男に向けられた嫉妬、女から男に向けられた嫉妬ではこのような「苦しみ」が発生するようには思えない。男→女以外の関係で起きた嫉妬がこのような「苦しみ」を生むだろうか。そこには男の「愛」が恋愛の相手を独占する・支配する欲望を伴っているから起きる感情と言動ではないかという疑いがあり、嫉妬は愛の感情分析より、権力分析の対象になるのではないか。思い付きをメモ。)
 「嫉妬」の心理分析は、シェイクスピア「オセロー」とゲーテ「若きウェルテルの悩み」が秀逸。この2冊を読むと、男の嫉妬がよくわかる。

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