odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

ウィリアム・シェイクスピア「ヴェニスの商人」(新潮文庫) 女性のほうがずっと頭がよく、正義や徳や慈愛を一身に体現する。

 初演の1596-7年というと、モンテヴェルディの「オルフェオ(1607年)」「ポッペアの戴冠」「ウリッセの帰還」などとほぼ同時代。これらをシリアスというのであれば、シェイクスピアの「ヴェニスの商人」は喜劇、ブッファだ。登場人物はリアルであるようであるが、観客よりもすこしばかり思慮が浅く観察力も足りない。だから、本来は法の形式を整えていない契約をするのだし、男装した女性が裁判官になっていることにも気づかない。登場する男性は誰もが女性よりも頭が悪い。威張っていても女の手のひらで遊ばされている。現実にはありえないそこのところを観客は笑うのだ。

 ヴェニスの投資家たちは貿易船が帰ってくるのを待っている。彼らは複数人でひとつの船に投資し、交易船がアラビア他から交易品を持ち帰るのを待っている。新大陸から持ち込こまれた金銀をもっていき、アラビアの香料その他と交換する。香料他は金銀よりも高い値段で売れるので、費用を払った後でも大儲けできる。それを投資家たちで分けるのだ。しかし海図もなく天気予報もない航海はきわめて危険で、嵐に合えばひとたまりもない。その場合投資はもちろん返らない。このようなリスクを積極的にとっていたのが、ヴェニスの商人であり、十字軍以来の投資と交易の活動はこの都市に莫大な富を蓄積していたのだ。という資本主義のおおもとがここにあるのである。(そういうヨーロッパで最も裕福な都市に住む利口とされる男たちがバカにされるのを笑うのだ。当時のイギリスは産業革命以前で植民地をもたない農業国で後進国)。
 そのひとりバサーニオーは借金を返せず行き詰まっていた。これでは貴婦人ポーシャと結婚できない。しかたなく町の悪徳金貸しシャイロックに借金を申し込む。友人アントニオーが保証人となり、返済できないときは1ポンドの肉で弁済するという契約を結んだ。首尾よくいくかと思いきや、アントニオーの船はすべて沈没。さいわいポーシャが借入金の3倍を弁済しようと申し出たが、シャイロックは応じず、決着は法廷に持ち込まれた。この先の機智によるドンデン返しは有名なので、委細は書かない。リアルではありえない金銭貸借契約が成り立つのだが、契約をその通りに執行することを法は命じる。その法をきわめて杓子定規に運用しようとすると、矛盾だらけになる。論理的合理的であろうとするほど、ファンタジックになるというのが笑いどころ。たぶん法のややこしさや司法官の融通のきかなさに困ることは多々あったのだろう(ラブレー「ガルガンチョワ物語」でも、スターン「トリストラム・シャンディ」でも、法の七面倒くさい条文の文体は揶揄やパロディのかっこうの対象であった)。
 同時進行するのはいくつかの恋物語。バサーニオーとポーシャ、グラシャノーとネリサ(ポーシャの小間使い)、ロレンゾーとジェシカ(シャイロックの娘)。男はいずれもヴェニスの投資家仲間。いずれも階層や出自を異にする人々の間で起きる恋。これもまた世間体はよくない。それがおもにポーシャの機智によって成就する(それも金の力を持つことによって)。これも笑いどころ。
 資本主義になる前から金貸しは共同体や教会の嫌われ者。金の論理はときにコミュニティの団結を破壊するからね。そのうえ共同体には厳しい就職制限があったので、異人であるユダヤ人は仕業か金貸しか商人になるしかない。宗教的な偏見にこれらの世俗的な偏見が加わって、ユダヤ人は中世から差別されてきた。ことにこの時代には異端審問と新旧教の対立があって、そこからユダヤ人差別がひどくなっていた。イギリスでは排斥運動があり、入国できない時期でもあった。そのような社会的な偏見と差別を浴びることになったのが、シャイロック。そこに現代的な意味を読み込んでもいいけど(やりたいけど)、「ヴェニスの商人」が400年前に書かれ上演されたものなので、過剰な意味づけはやめておく。世間の不条理を背負い込む悲劇的人物であるとか、共同体や家族から排除されるトリックスターであるとか、やりようはある。でも、これは喜劇。よくある貪欲で意地悪な悪人がいい気になったものの、足をすくわれて笑いものになるだけ。当時の喜劇の悪人のパターンを踏襲しているだけと思うことにしよう。シャムロックだけではなく、バザーニオーもロレンゾーも観客に笑われる短慮なキャラクターなのだ。
 なにしろ、劇全体で正義や徳や慈愛を一身に体現するポーシャや小間使いのネリサや駆け落ちを進めるジェシカのほうがずっと頭がよいのだし。ポーシャなど、その地位と金のおかげで何人もの異国の王が求婚してくるのを見事にさばくのだし、バサーニオーの男を下げないでしかし尻にしけるように指輪を使うのだし。これらは中世からある既知の物語からの借用であるが、喜劇の中にうまく収めている。そういう視点から読むほうがおもしろい。(ポーマルシェ-モーツァルトの「フィガロの結婚」みたいに)。

 

(追記)小田島雄志小田島雄志シェイクスピア遊学」(白水ブックス)1982年によると、当時のユダヤ人問題は、1.1290年のユダヤ人追放令が生きていた(クロムウェルが廃止するまで効力があった)、2.ユダヤ人の多くが金貸し業で憎まれていた、3.ユダヤ人によるエリザベス女王暗殺計画が発覚した、という事情があったとのこと。